「あの人たちのこと伝えて」「この地域を忘れられたくない」被災地で託された思い
[2024/02/17 10:30]
金沢の居酒屋では「もっと奥能登を取材して」と言われた。七尾市の旅館では「まだ報道されてない場所がある」と教えられた。
能登地方に取材に向かった1月20日以降、多くの方々から同じような言葉を受け取った。
被災地でなぜ取材するのか、何を伝えるべきか問い続けた日々を記す。
(情報番組センター 『グッド!モーニング』ディレクター 飯田陸央)
■「自分より取材してほしい人がいる」居酒屋代表の言葉
金沢市の兼六園からほど近い場所にある居酒屋「酒と人情料理 いたる」
国内外の旅行客に有名な人気店で、通常なら1カ月先まで予約が取れないお店だ。
店の被害は少なかったにも関わらず、予約の8割がキャンセルになっていた。
私たちの取材は、台湾メディアがこの店に来て「台湾でも人気の店が被災した」と報じた話について伺うものだったが、代表の石黒さんがしきりに言ったのは、
「金沢はまだ大丈夫だから。奥能登をもっと取材してほしい」という言葉だった。
奥能登の輪島市や、珠洲市に里帰りしていた従業員もいたことや、奥能登で支援活動を続ける社会福祉法人のことを教えてくれた。
驚いたことに、別の取材場所でも同様のことを言われた。
22ある七尾市・和倉温泉の旅館はすべて営業休止。水道の復旧は「4月以降」と発表されたタイミングだった。
宿泊客や支援者からの手紙を読み、希望を見出す旅館「はまづる」の経営者・高城一博さんを取材した。
「自分にいま、できることを」と考え、町全体を未来に繋いでいこうとする意志を感じた。
取材が終わりかけたころ、その高城さんがこう言ったのだ。
そして、知人の病院の状況を伝えてほしいとお願いされた。
経営する店や旅館が震災の影響を受けているなか「自分よりもっと取材してほしい」と言われたのが印象的だった。
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■「近くの牧場はもっと…」案内してもらう■「近くの牧場はもっと…」案内してもらう
牛舎が倒れかけ、牛があふれた状態の珠洲市唐笠町・松田牧場。
近くの牧場の悲惨な状況を伝えようと、牧場主の許可を得て、実際に私たちを案内してくれた。
潰れた大きな牛舎を目にすると言葉が出なかった。多くの牛が牛舎の屋根に下敷きになっていたのだ。
一部、崩れずに残っていた部分に、主がいないまま親子の牛が取り残されていた。
我々は取材して伝えることはできるが、子牛一頭も運ぶことができない。
強いもどかしさを覚えた。取材を終えて、車に戻る足が重くなる現場だった。
(松田さんのSNSによれば後日、従業員の方や牧場主などの協力で子牛は移送できたという)
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■「僕はいいんで」と語る消防団員の姿に驚き■「僕はいいんで」と語る消防団員の姿に驚き
当時まだ3人が安否不明だった輪島市市ノ瀬町。
土砂崩れの瞬間をとらえた動画が衝撃的だった。
実家が土砂崩れに飲み込まれながら、輪島朝市の消火活動に26〜27時間続けて参加していた地元の消防団員を取材。それほどの経験しながらも、こう私たちに語る。
伝えたい思いを、私たちに託しているようにも感じた。
そして、取材時は100人近くが生活していた七尾市の避難所、田鶴浜体育館。
避難者の1人、川元信治さんの自宅に伺うと、元の生活や周りの町の様子を事細かに話してくれた。
そこにあった町の空気は、今とは違うものだったはずだ。放送では、空気や、思い出は伝えきれない。
川元さんの語る言葉は「もっと知ってほしい」と私たちに託した言葉だったようにも思う。
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■被災地取材で伝えられること 伝えられないこと■被災地取材で伝えられること 伝えられないこと
被災地のどこで、何が起こっているか、現地の人は何を思っているかを伝えること。
取材の原点を改めて問い直すことになった。
2011年の東日本大震災のとき私は大学生だった。
ゼミの研修として現地に行き、記憶に刻まれたのは、津波で「何も無くなった」風景。
「無くなったことは、伝えられないんだ」と強く思った。
撮れないものは、居ない人は、伝えられない。
10年以上経ち、震災報道に携わることになった。多くの人に出会い、話を聞いた。
「もっと取材してくれ」「ここにこういう人がいる」という言葉で、なぜ私たちが被災地に入って取材するのか、少しずつ分かってきたように思う。
この短い取材期間では、そこにあるもの、そこにいる人を取材することで、精一杯だった。
十分に要望に応えられない、また、取材はできても十分に手助けできない悔しさを経験することもあったが、雪の降る能登で抱いた思いを忘れずに、これからの番組作りに生かしていきたい。