蒸しアワビ一筋 輪島朝市で80年続く老舗社長「私の代で終わらせるわけにはいかない」

[2024/03/28 12:00]

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庭の一角に積み上げられたアワビの貝殻が、日光の下でキラキラと深紅色の光を放っていた。

「アワビといえば関山さん」
能登半島地震で壊滅的な被害を受けた観光名所「輪島朝市」で、そう言われる人がいる。80年近く露店を営んできた老舗という。

そんな関山さんを求めて、私たちは2月、輪島市の一角にある「味の海産物 関山」社長の関山俊昭さん(73)の加工場を訪ねた。

能登半島地震が起きたときは、従業員は正月休みで、家族にもけがはなかった。ただ、加工場と同じ敷地に建つ自宅は倒壊を免れたものの亀裂がはいり、応急危険度判定で「危険」と判定された。

店舗も兼ねていた加工場のショーケースはすべて割れ、冷凍庫に保存していて1月4日に出荷予定だった加工品は、電気が通らなくなり、ほとんどを廃棄処分するしかなかった。

母の代で始めたアワビ、最初は「辛くて硬かった」

輪島朝市には、母・富子さんの代から出店を始めた。当時の主力商品はイワシやサバのぬか漬けだったという。
「朝早く市場まで行って魚を仕入れて、ぬか漬けやいしる(能登伝統の魚醤)をよく作って売っていました。私も商品を積んだリアカーを引っ張って朝市まで行って、テントの設営を手伝っていましたよ」と振り返る。5人きょうだいの長男だった関山さんは、忙しい母に代わって朝ごはんを作るのが日課だった。

関山さんが中学生のころ、オーストラリア産アワビが手に入るようになると、富子さんは塩蒸しにして販売。冷蔵庫がどの家庭にもあったわけではなく、真空の技術がなかった当時は塩蒸しにして、天日で干して、保存する必要があった。だから「辛くて硬いものだった」という。

関山さんは高校を出ると東京の大学に進学した。法律を学び、研究者を目指していたが、富子さんに病気がみつかり、帰郷。27歳で富子さんを支える形で輪島朝市に立ち始めた。露店の看板を継いだあとは、「朝市だけでなく、全国に販路を拡大したい」と、32歳で一念発起して借金し、会社を設立、加工場も造った。

輪島の海女が取った高級アワビをアレンジ

もともと研究肌で、目標を決めるととことん極めたい性格だ。母の製法を引き継ぎつつ、独自にアレンジを加え、いかにしてアワビを柔らかく、美味しくするかを追求してきた。

天然のアワビが持つ柔らかさを最大限に引き出したい。その思いで考え出したのが、江戸時代からの製法といわれる「蒸しアワビ」にさらにアレンジを加えた「酒蒸し」だった。

「味の海産物 関山」で作っているアワビの酒蒸し。ふるさと納税などでも人気という=本人提供

毎年6月〜9月になると、能登半島沖で取れた新鮮なアワビを買い付け、加工場で貝殻を外す。内臓(ワタ)を外して身を丁寧に洗い、塩と日本酒を使い、釜で2時間じっくり蒸す。取り出したら水洗いをして塩抜きをし、天日で3時間。さらに半日かけて冷やし、真空パックにすると、「日本でもなかなかない珍味」(関山さん)という「アワビの酒蒸し」が出来上がる。お酒で蒸すことで風味と柔らかさが格段に上がるのだという。

使うのは、能登の伝統でもある輪島の海女漁で取れたクロアワビが多い。日本海でも有数の漁場の一つ、舳倉島(へぐらじま)などで海女さんが素潜りで一つ一つ取ってきたものにオリジナルの風味を加えて柔らかさを引き出した「関山ブランド」のアワビは、デパートや物産展で「驚くほど売れた」という。

「デパートで販売するようになってうちの名前も認知されました。おかげさまで今、ふるさと納税といった形で、輪島市のほうにも出して頂いている」と目を細めた。

クロアワビの貝殻。磨くと虹のような輝きがあるとされ、アクセサリーなどに使われることも=2024年2月8日、石川県輪島市

庭先に山積みとなっていたアワビの貝殻は、こうした加工を終えたメーン商品の「残り」だが、ワイシャツのカフスボタンとして使われたり、ギフト用に贈ったり。ほかにもアワビのキモを2年かけて塩漬けにし、吟醸の粕で二度漬けした「アワビの肝の粕漬け」も主力商品という。まさに、アワビを余すことなく使い切っている。

「『輪島朝市に行けばアワビがある』とお客さんに認知してもらい、朝市の名物として確立したかった。輪島朝市でアワビを扱っているところは何軒かあるけど、蒸しアワビではうちは先駆者じゃないかなと思います」

露店に立つ関山俊昭さん(中央奥)。輪島市のPR向けに、地元の若者と撮ったもの= 2023年5月、輪島ビジネスラボ提供?

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75歳で引退、のはずが

75歳で引退、のはずが

現場が大好きで、店舗にいるより朝市で自ら露店に立つことを好んだ。輪島市朝市組合の役員にもなり、75歳になったら引退して「ゆっくり余生でも送ろう」と思っていた。

あの日までは。

「最初に震度5が来たときは『ああ、いつもの地震か』くらいだったんですけどその数分後の震度7はまったく違うものだった。立っていられない揺れで、店にあった大きなプリンターの機械が部屋の端から端に吹っ飛ばされていたんです」

震災で被害を受けた関山俊昭さんの店内=2024年2月8日、石川県輪島市?

避難所にいくことも考えたが、倒壊を逃れたため、ひとまず自宅で過ごすことに。朝市組合事務所のことが心配で、約1km離れた事務所まで見に行ったら「全部潰れていた」という。一度自宅に戻るも、火の手が上がったのが見えて、再び自宅から朝市へ向かった。「最初見たときは3軒くらいが燃えていて、鎮火すると思ったんですよね。ところが、風がすごくて。ボンベの爆発音もボンボンと聞こえて」

「これを、地獄というのか」

気づけば、我を忘れて2時間ほど立ちながら、炎に包まれる朝市を見ていたという。

震災で亡くなった人には、知人も含まれていた。

「自分にとって原点、地域にとっては社交場」

関山さんにとって朝市は、「自分を作った原点」だと話す。「ここがあるから、輪島を全国にPRできるんです」

輪島朝市の露店に立つ関山俊昭さん=2018年2月、輪島たび結び提供

それだけではない。祖母が行商をしていた関山家にとって、朝市は人と人との交流の場でもあった。

「昔は値札なんてなかったんですよ。朝市の歴史は物々交換ですから。お客さんとのやりとりで値段が決まっていくところがあった。時代が変わっても、対面商売はずっと変わらない。もちろん商売だから売り上げも当然なんだけど、プラスアルファがすごく大事だった」

対面商売が基本の輪島の朝市=2015年5月、HAB北陸朝日放送

闇市化、路上販売の禁止…朝市は「先人たちの苦労の結晶」

観光客だけでなく、地元の人にとっても大事な市場である朝市は、地域の貴重な情報交換の場だったという。「あんたんとこのお姉ちゃん、いつ嫁に行ったっけ、とかそういう話をするんですよ」。ただの観光地じゃない、社交場だから、絶対残さないと行けないんだと、関山さんは話した。

輪島朝市では、終戦後、復員兵が露天商となり、闇市化したことがあった。また、警察署から路上での商売が禁止されたこともあったという。行商をしていた関山さんの祖母も、物々交換の米を取り上げられたことがあったそうだ。

「先人たちもいろんな苦労があって、それでもめげずに頑張ってきたという歴史がある。そうして培ってきた朝市を、私の代で終わらせる訳にはいかない」

インタビューに応じる関山俊昭さん=2024年2月8日、石川県輪島市

朝市を守り、次の世代に繋ぐ。「それが、私の使命だと思うようになったんです」

もう5年くらいは、頑張ろうかな。そういう関山さんに、まずは何をしたいか質問した。
「製造しただけでは駄目なんです。販売力がないと。私はそれを持っている」
これまで40年以上培ってきた人脈や全国への販売ルート、それをいま、フル活用する時が来たという。

港が少しでも復活したら。
海女さんが海へ出られたら。

「大枚はたいてでも、うちで引き取れるだけ引き取って、全国へ持っていきますよ」
老舗の社長の自信をみせてくれた。

(取材:今村優莉、撮影:井上祐介、石井大資)

  • 関山俊昭さんの加工場兼自宅の庭先に山積みのアワビの貝殻=2024年2月8日、石川県輪島市
  • 関山俊昭さんの露店があった場所
  • 「味の海産物 関山」で作っているアワビの酒蒸し。ふるさと納税などでも人気という=本人提供
  • クロアワビの貝殻。磨くと虹のような輝きがあるとされ、アクセサリーなどに使われることも=2024年2月8日、石川県輪島市
  • 露店に立つ関山俊昭さん(中央奥)。輪島市のPR向けに、地元の若者と撮ったもの= 2023年5月、輪島ビジネスラボ提供?
  • 震災で被害を受けた関山俊昭さんの店内=2024年2月8日、石川県輪島市?
  • 輪島朝市の露店に立つ関山俊昭さん=2018年2月、輪島たび結び提供
  • 対面商売が基本の輪島の朝市=2015年5月、HAB北陸朝日放送
  • 対面商売が基本の輪島の朝市=2005年1月、HAB北陸朝日放送
  • インタビューに応じる関山俊昭さん=2024年2月8日、石川県輪島市

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