卓球・五輪代表争い 早田ひな“ひな語”で圧勝 平野美宇“どん底からパリへ”

[2024/01/30 15:47]

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卓球の全日本選手権で、圧倒的な強さを見せたのは、代表選考レースを独走していた早田ひな選手(23)でした。色々な技術を身につけるなかで、自分なりの感覚を言語化してきました。

早田選手…勝利に繋がった“ひな語”

早田選手
「例えば、“スアー”という言葉がある」
「(Q. “スアー”は“ひな語”ですか!?)そういう言葉が、いっぱいある」

“スアー”とは、強打する時に余計な力が入らないように考えた言葉です。

28日の決勝では、“スアー”とはまた違う“ひな語”が勝利に繋がったといいます。

早田選手
「(Q.試合中も進化していた。そのなかで、“ひな語”は出てきました?)出てきました。恥ずかしいんですけど、ぱらぱらチャーハン」
「(ぱらぱらチャーハンは)自分は手足が長くて、両サイドのボールがとれる。相手は体の真ん中を目掛けて打ってくる。真ん中にボールが来た時に処理する言葉。誰も理解できない。申し訳ないです」

■平野選手にしか分からない苦しみ

そして今回、もう一つ決着したのがシングルス2枠目をかけた争い。

パリへの切符を手にしたのは、平野美宇選手(23)です。熾烈な選考レースを勝ち抜くうえで、自分に言い聞かせていた言葉があるといいます。

平野選手
「『やるか、やらないか』じゃなくて、『やるか、やるか』で選択肢にして」

そんな言葉が生まれるまでには、平野選手にしか分からない苦しみがありました。

平野選手が注目されたのは、10歳の時でした。 2011年、全日本選手権女子シングルスで最年少勝利記録を10歳9カ月で更新し、「天才卓球少女」と称され、オリンピック出場が期待されました。

平野選手(当時10)
「(Q.将来の夢は?)オリンピックで金メダルをとることです」

しかし、2016年のリオ・オリンピックでは代表落選したため、サポートメンバーを務めました。 前回の東京オリンピックは出場こそしたものの、シングルス代表の座は逃しました。

さらに、パリ・オリンピックへの挑戦でも思わぬ苦戦。 年下選手たちの台頭により、代表争いは一時、8番手まで落ちてしまいます。

平野選手
「私は、もう時代が終わっちゃったんじゃないかな」
「(Q.『美宇の時代終わったわ』って?) そうです。それが結構ショックで、当時はラケットとか台とか見たくなくて、本当にそれくらい嫌いになってしまった時がありました」

では、そんなどん底から、どのように這い上がったのでしょうか?

平野選手
(Q.何が変わった?)自分を1回下だって受け入れて、始めたところから、また卓球に向き合えた。(以前は)どこかで『神様行かせてください』 『早く負けてくれないかな』『相手がラッキーなボールをミスしてくれないかな』。それがすごく後悔。攻める自分にならないと」
「 (Q.攻め美宇?)選択肢を自分に与えないように。やらないっていう選択肢は与えない」

「やるか、やるか」は攻める自分になる言葉。 26日の全日本選手権でも、攻めの気持ちが大きな力になっていました。

平野選手
「(6回戦)ストレートで大藤選手に勝てたのは、『やるか、やるか』という気持ちで終始戦えていた」

■「やるか、やるかパリ」平野選手の大きな目標

念願のシングルス代表を決定づけた26日に行われた6回戦の相手は、11月の選考会で負けた大藤沙月選手(19)でした。 大藤選手のサーブに対し、平野選手が攻撃的なレシーブでポイントを獲得しました。

平野選手
「やるしかない。やるか、やるかだって気持ちと。今回はレシーブの時に自分から攻めていくしかないという気持ちで、先手を取るしかないという気持ちで出来た」

この試合でも、平野選手から攻める、攻める、攻める。 相手のミスを待つのではなく、最後まで積極さを貫きました。

平野選手
「(Q.やるか、やるかで結果が出た。実際にやってみてどうでしたか?)一つ乗り越えられた気がして、勝とうと思ったら自分の中で逃げててもだめですし。自分の人生は自分でコントロールしないと、自分で決めないと。選考レースで勝つことも大事なんですけど、パリ五輪で結果を残さないと、出場しても意味がない」
「(Q.やるか、やるかパリ?)“やるか、やるかパリ”です」

(「報道ステーション」2024年1月29日放送分より)

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