
176cmの長身と端正なルックスで世界のトップモデル(TAO名義)として活躍し、映画「ウルヴァリン:SAMURAI」(ジェームズ・マンゴールド監督)のヒロイン役でハリウッドデビューを果たした岡本多緒さん。その後、本格的に俳優としての活動をスタートし、「血の轍」(WOWOW)、映画「バットマンVSスーパーマン ジャスティスの誕生」(ザック・スナイダー監督)などに出演。2023年、企画、監督、脚本に初挑戦した短編映画「サン・アンド・ムーン」が「MIRRORLIAR FILMS Season6」の一篇として、12月13日(金)からヒューマントラストシネマ渋谷ほかで2週間限定上映される岡本多緒さんにインタビュー。(※この記事は全3回の前編)
■背が高いことがコンプレックスでモデルになろうと一念発起、原宿でスカウト待ちに

千葉県で3姉妹の次女として生まれ育った多緒さんは、小さい頃から背が高いことがコンプレックスだったという。
「『モンテッソーリ』という教育方針の幼稚園に通っていたんですが、『子どもには、自分自身を育てる力が備わっている』という『自己教育力』が前提になっていて。
個々に興味をもったもので自由に学び・遊ばせてくれるので、すごく伸び伸びしていたと思います。ただ、小学校から一般的な公立に入ったら規則がとても厳しいように感じて…カルチャーショックを受けましたね。
すごく思い出に残っているのは、ピンクかブルーの絵の具セットを選ぶことになった時、女の子の中で私だけブルーを選んでいたんです。その時、なぜか間違ったことをしたような気持ちになってしまって。
そこからの6年間、小学生なりの社会というものを学んだり、あまり自己主張をしないようにするというか…すごく周りを見るような子どもになっていきました
それが高校生、大学生になっていくにつれて、個性というものをもうちょっと出してもいいのかな…って、固まっていた思考がほぐれていった感じですね」
――小さい時から背は高かったのですか
「はい。背は小さい時からずっと大きくて、小学校高学年ぐらいになるとからかわれはじめたので、朝礼の時には膝を曲げてなるべく目立たないようにしていました。それがすごくコンプレックスかつ反動になって、最終的にモデルを目指すことに繋がりました」
――モデルにと思い始めたのはいつ頃からですか
「13歳くらいだったと思います。スポーツで活躍できたらこの身長も活かせるかなと思っていたのですが、全くセンスがなくて(笑)。その代わり、吹奏楽部で頑張っていました。
でも、モデルになれたら、からかっていたみんなも見直してくれるかなという気持ちがあって。当時、特にファッションが好きとかモデルさんに憧れていたというわけではなかったんですが、思い立って14歳の時に原宿にスカウト待ちに行ったんです(笑)。そうしたら、その日にキディーランドでスカウトしてもらって。
そこで初めて両親にモデルをやりたいと打ち明けたんです。両親はちょっと芝居をやっていた経験もあるので、わりとオープンな考え方の人たちなんですね。それで、やるんだったらスタートは慎重に切ろうということになって。
スカウトしていただいたところは俳優がメインの事務所だったので、モデル事務所を探して応募することからやり直しました。ただ、すごく恥ずかしがり屋だったので、両親に履歴書の写真を撮ってくれと言えなくて。
当時、全身が撮れるプリクラというのが出始めた頃だったので、(千葉県にある)学校が終わった後、電車で1人で渋谷の109に行きまして。足が見えるようにスカートを折りながら全身のプリクラを撮りましたね。それをモデル事務所に送って本格的に始まりました」
――それですぐにお仕事をすることに?
「いいえ、なかなかそんなに順調ではなかったです。東京コレクションのファッションショーが最初の仕事だったんですが、ティーンのモデルにしてはちょっと背が高いし、大人
の仕事にしてはちょっと子どもだし…すごく中途半端な時期だったなと思っていて。10代後半ぐらいまでわりと厳しいモデル時代でしたね。
18、19歳ぐらいになってようやくです。日本の雑誌とかファッションショーはなかなか決まらないのに、海外のブランドが日本に来てショーをする時には、必ず決まるようになってきて。私は海外の方が、需要があるのかもしれないと思うようになりました」
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■19歳の時に単身パリへ■19歳の時に単身パリへ

2006年、多緒さんは19歳で単身パリに行き、パリコレ、海外コレクションに参加することに。
「高校時代、17〜18歳の1年間でイギリスに留学していたので、単身の海外生活は初めてでもないし…ということでパリに行きました。高校を卒業したらモデル1本でやろうと思っていたんですけど、当時流行っていた『オレンジデイズ』(TBS系)というドラマを見て大学生にもなりたいと思って(笑)。それで国内の大学にも入りました。
お芝居と音楽が好きだったので芸術学部に入ったのですが、だんだんモデルの仕事が忙しくなったのと、演劇科と音楽科の先生の派閥がすごくて…やりたかったことが両立できなかったんです。それで結局1年で大学は辞めちゃうんですけど、そこからどんどん仕事が順調になってきました。
でも、母はやっぱり大学を出てほしかったみたいで、私は退学届を出したつもりでいたんですが、母が実は休学にしていたというのが後からわかったりして。何があるかわからない世界だから保険として、ということだったと思うんですけど。
ただ、私がフランスに向かって行ったので、母も腹をくくってくれたというか。わりとそういう自由に飛び回る子どものことを喜んでくれるような両親なんです。最終的にパリからは1年半ぐらいで帰ってくることになるんですが」
――帰国されて日本でモデル活動することに?
「そうですね。根底には常に日本で受け入れてもらいたい、という気持ちがすごくあって。それは小さい時から、自分の居場所に完全に馴染めていないような感覚になることがあったので、モデルの仕事でもまずは受け入れてもらえるところに自分の身を置いてきたんです。でも、やっぱり日本で、母国で認められたいという気持ちがすごく強くて。
1年半、パリやヨーロッパ、ニューヨークにも行ったりして、わりと順調に仕事をしていたんですが、自分が期待していた日本での評価というものになかなか繋がらなくて。
少しだけキャリアを積んだというお土産を持って一度日本に帰るんですが、自分のやりたいことが何故か満足にできなくて…。それが22とか23歳ぐらいでしたね。
今考えると、全然若いな〜と思うんですが、14歳から始めて10年近く経つし、このままにっちもさっちも行かないんだったらやめようと思っていました。ただ、最後に苦手だったニューヨークをもう一度だけ、もう1年だけトライしようと。
そこからどんどん仕事の密度が変わっていって、やりたいことが出来るようになっていったんですよね」
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■「TAOヘアー」でブレーク!トップモデルに■「TAOヘアー」でブレーク!トップモデルに

2009年、多緒さんはニューヨークに拠点を移し、のちに「TAOヘアー」として知られることになるマッシュルームカットに。デザイナー、フィリップ・リム氏に見出され、ニューヨーク・コレクションでは、出演するモデル全員を「TAOヘアー」にするという演出も。
トップモデルとしてブレークする。
「ずっと長かったロングヘアーをバッサリ切った半年後、最後の望みをかけてニューヨークに渡りました。
というのも、アジアのモデルさんにはいろいろな国の人がいて、それぞれの個性があり、かつ日本人は当時まだ私ぐらいだったので、そこにモデルとしてのアイデンティティも強く持っていたのですが、欧米では結局見分けがつかないから、『これは私じゃなくても、アジア人であれば誰でも良かったんじゃないのか?』という気持ちになってしまうような仕事が多くて。それがすごく嫌だったんです。
だから、市場が考える、いわゆる“アジア人のルック”をなくしたらどういう風になるんだろうかと、あのヘアースタイルでニューヨークに行くという選択をしたんです。
その時にちょうど中性的なモデルが流行っていたり、中国経済がウナギ登りしている時だったので、アジア人のモデルの需要自体もすごく増えていたんですよね。そこにばっちりタイミングが合って、本当に救われたという思いでした。
それまで日の目を見ないというか、ウツウツしていた時間が長かったので、こんな奇跡的なことが自分に起こるんだ…と、すごくうれしかったです」
――その変化はすぐにわかりました?
「はい。まず、ニューヨークで仕事をはじめるにあたって、現地の事務所と契約をしなければいけないんですが、周りのモデルさんたちには、それをアシストしてくれるスタッフさんがいて、すでに約束を交わしてから渡航する人がほとんどだったんです。私にはそういった頼りがいなかったので、自分でアポを取ったり、アポなしで行ったりして…。
そんな中で、ずっと入りたいなと思っていた第一志望の事務所に行ったら、『すごくいいね。じゃあ、やろうか』と即答してもらえたんです。
その返事をもらった後、まだふわふわした気持ちのまま地下鉄に乗ってブルックリンの家まで帰るんですが、電車がブルックリン橋を渡るので一瞬地上に出るんですね。
橋にさしかかったその時に、すごく綺麗な夕日が窓から差し込んできたんです。とても厳しかった氷河が雪解けしていくような感覚を全身で覚えました。『何かまだよくわからないけど、私はイケるかもしれない』みたいな。電車の中で、ワクワクが止まらなくなったのを今でも鮮明に覚えています。
これまで、ストレートに『いいね』とか『イケるよ』と言ってもらえたことがあまりなかったので、素直にすごくうれしかったです。
そしてその後、フィリップ・リムが、ショーのオープニングに抜擢してくれて。彼が、他のモデルさんを全員私の髪型で登場させるという演出をやった時には、すごく話題にしてもらえました。
そこからヨーロッパのショーにも順調に行けたし、アジア人として初めてラルフ・ローレンの広告に起用してもらえたり、他にもいろいろなキャンペーンの仕事が舞い込んでくるようになりました」
2009年、第52回FEC賞FECモデル・オブ・ザ・イヤーを受賞。シャネル、エルメス、ルイ・ヴィトン、ジバンシーをはじめ多くの有名ブランドのショーに出演し、世界各国の「VOGUE」など国際的な雑誌に登場。
「下積みの10年間だったので、やはり認めてもらえたということがすごくうれしかった。大きな自信にも繋がりました」
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■ヒュー・ジャックマンに会いたくて映画のオーディションへ■ヒュー・ジャックマンに会いたくて映画のオーディションへ

2013年、映画「ウルヴァリン:SAMURAI」でハリウッドデビューを果たし、ヒュー・ジャックマン演じるウルヴァリンの恋人・矢志田真理子役を演じることに。
「俳優になるということは全然考えていなかったんです。先ほども少しお話ししましたが、両親がかつて役者をやっていて。私たち子どもが産まれ、十分な稼ぎができずやめてしまったんです。子ども心にネガティブなイメージを持ってしまっていたし、何よりそんな簡単な
職業ではないことはわかっていました。
でも、モデルとしてある程度人気が出てくると、『じゃあ次は女優さんだね』と言ってもらったりするんですよね。モデルは女優になるためのステップだってみんな考えているのかなって。それがちょっと悔しくて。
私はモデルとして本気で、真剣にやっていたし、プロとしてのプライドを持っていたので、一生というか、やれるだけモデルとして生きていくぞと思っていたんですけど、そんな時に突然『ウルヴァリン〜』のオーディションの話があって。
最初はお断りするつもりでいたんですが、『ヒュー・ジャックマンの恋人役よ』と言われたので『じゃあ、やりたいです』って(笑)。やりたいというか、『ヒュー・ジャックマンに会ってみたいです』みたいな本当に軽いノリでしたね。
決まるとも思ってないし、記念受験みたいな感じで受けることにしたんですが、台本も一切読んだことはなかったですし、そもそも『どうやって読むの?』みたいな。
ト書きとセリフ、そういったこともわからないままオーディションに参加してみたんですが、会場が『いいね!』みたいな雰囲気になって。『いいの?これで?』と逆に不安になりました(笑)。
そこから本当にトントン拍子に話が進んで、気が付いたらロサンゼルスでジェームズ・マンゴールド監督と面接をして、プロのヘアメイクさんがついてのカメラテストもあって。
そのあとでまたニューヨークに帰り、最後のオーディションをしたんですが、ヒュー・ジャックマンとのケミストリーリーディング、読み合わせでした」
――憧れのヒュー・ジャックマンと会っていかがでした?
「からだも大きくて、本当にウルヴァリンのようだなというのが第一印象でした。ヒューがちょうど『レ・ミゼラブル』(トム・フーパー監督)を撮り終わったタイミングだったので、ミュージカルファンの私はウルヴァリンそっちのけで、その話をしていたから、彼はポカンとしていましたね。『今、その話なの?』みたいな(笑)。
その最後のオーディション用に確か10ページ前後の英語のセリフを覚えていたんですが、ヒューから『アドリブでいきたい』という要望が出て。ただ、当時の私は『アドリブって何ですか?』という状態でした。
何とか一生懸命覚えてきたセリフにかじりつくんですけど、ヒューは逆に一生懸命そこから引っ張り出してアドリブでやらせようとするわけですよ。参ったなあ…と思いながらも必死にしがみついて。
そして気が付いたら、アドリブにのめり込んで、最終的にその台本には書いてなかったキスをしていて。
今の時代だったら突然そんなことはできないと思うんですけど(笑)。カットがかかった瞬間、椅子から崩れ落ちて『何だったんだろう?今のは』みたいな感じでしたね。でも、自分の人生で新しい何かが始まるような感覚というのはありました。
それから2週間後だったかな。決定したというニュースが届くんですが、その間もやっぱりすごくワクワクしながら、結果の連絡を待っていたのを覚えています。
最初、キャスティングの人がすごく喜んでくれていて。実は何年も探していたのに、役に合うキャストが見つからない状況だったそうなんです。
ようやくスタジオのOKも出て、プロデューサー陣も俳優陣もみんな『TAOで行こう』という決着になったと。モデル事務所の社長もすごく興奮しているから、私はわりと冷静だった気がしますが、すごくうれしかったです」
――撮影が始まるとガラッと生活も変わったでしょうね
「その1カ月後ぐらいにオーストラリアに入ってリハーサルを始めて…という準備期間の短いスケジュールだったので、撮っている瞬間もそうですが、事の重大さに気づかないまま放り投げられたというか。今思えば、逆にそれが良かったかもしれません」
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■ハリウッド映画のヒロインで俳優デビュー■ハリウッド映画のヒロインで俳優デビュー

劇中、アクションシーンもあるため、トレーニングに加え、食事も管理されていたという。
「毎日2、3時間くらいトレーニングがあって、しかも朝から夜までのすべての食事が、朝イチに山のように届くんです。タンパク質と野菜と…みたいな。それがからだづくり用なので、量もすごい上に美味しくなくて(笑)。1週間か2週間ぐらいで限界が来ました」
――初めてのお芝居がハリウッド大作のヒロインというのはすごいですね
「ことの重大さがわかっていなかったので、萎縮せずに淡々と割り振られたことをやるという感じで。でも、すごくあったかい現場で居心地が良かったです。
ただ、初めての現場の規模が大きすぎたので『これからダウンヒルだよ。どこに行ってもこんなにいい思いはできないよ』みたいな忠告ももらいました(笑)。
オーストラリアに行く直前にはさすがに『どうしよう?どうしよう?』と、ちょっとジタバタしてきて。演技のレッスンをしっかり受けたほうが良いのか尋ねたんですが、監督には、『そのまま来てほしいから、変なところに行かないでほしい』と言われたので、その言葉に甘んじて『私はそのまままでいいんだ』と落ち着きました(笑)。
ただ、さすがに初日にスタジオに入った時には、急に膝が震え始めちゃって…。真理子の登場シーンからの撮影だったんですが、その時、父親役の真田(広之)さんもいらっしゃって。
真田さんに『どうしましょう?すっごい緊張しています』と打ち明けたら、『おー、いいね。緊張しなくなったらもうここには来なくていいから。緊張しているのは良いことなんだよ』って、すごく温かく励ましてもらったのを覚えています」
――撮影現場でのヒュー・ジャックマンはどんな感じでした?
「やさしいお兄ちゃんみたいな感じで、食事をするシーンでは、『このセリフでどれに手を付けたか、覚えておいた方がいいよ』とか、初歩的なこともたくさん教えていただきました。常にキャストとスタッフみんなに気を配ってくれていましたね」
――彼はスタッフの皆さんに宝くじをプレゼントしていたそうですね
「はい。宝くじを毎週金曜日に何百枚も買って、スタッフの一人一人に自分で手渡ししていました。彼が初めて出演した映画の撮影が終わった時、一度も話したことがないスタッフがたくさんいたのがショックだったそうです。
それで、全員とコミュニケーションをとるきっかけとして宝くじをプレゼントすることにしたそうなんですが、それをずっと続けているというのがすごいですよね。本当にすばらしい人だなって。俳優として参加した初めての作品があの現場で、本当に幸運だったなあと思います」
映画が公開され話題を集めた多緒さんは、モデル活動に加え俳優としてもドラマ、映画に出演することに。真田広之さんと再共演した海外ドラマ「ウエストワールド」、「血の轍」(WOWOW)、映画「バットマンVSスーパーマン ジャスティスの誕生」など出演作が続いていく。次回はその撮影エピソードなども紹介。(津島令子)
※岡本多緒プロフィル
1985年5月22日生まれ。千葉県出身。14歳でモデルデビュー。2006年から「TAO」名義でパリ・ミラノ・ロンドン・ニューヨークと数々のトップメゾンのショー、雑誌、ワールドキャンペーン広告に多数出演。「ハンニバル」シーズン3(NBC)、「マンハント」(ジョン・ウー監督)などに出演。2023年に「岡本多緒」として日本を拠点に活動をはじめ、「ラストマンー全盲の捜査官―」(TBS系)、映画「沈黙の艦隊」(吉野耕平監督)に出演。さらに、自身で初めて企画・監督・脚本・出演をつとめた短編映画「サン・アンド・ムーン」が、第36回東京国際映画祭Amazon Prime Videoテイクワン賞のファイナリスト作品に選出されるなど多方面で活躍中。
スタイリスト:Eriko Iida(CORAZON)
衣装協力:ピアス、ネックレス、リング/CASUCA(カスカ)