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2025年1月24日 13:39

堀田眞三 俳優生活62年!第一線で活躍を続け、特撮ドラマからヤクザ映画、CM、MVまで幅広いジャンルの作品に出演

2025年1月24日 13:39

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1963年、第11期東映ニューフェイスに合格して俳優生活をスタートさせて以降、62年間、第一線で活躍を続けている堀田眞三さん。「仮面ライダー」(TBS系)、「アイアンキング」(TBS系)、日韓合作映画「絶壁の上のトランペット」(ハン・サンヒ監督)、「UQモバイル」のCMなどに出演。2018年に出演したMr.Childrenの「here comes my love」のMVが話題に。2024年、主演短編映画「終焉」(古庄正和監督)で「ふくおか国際映画祭」俳優賞を受賞。2025年は、映画「〜運送ドラゴン〜パワード人間バトルクーリエ」(大東賢監督)の公開も控えている堀田眞三さんにインタビュー。(※この記事は全3回の前編)

■東映ニューフェイスに合格

父親を戦争で亡くした堀田さんは、大阪で自分と妹を抱え苦労している母親の姿を見て育ったという。

「小学校6年生ぐらいの時に父が戦争で亡くなってしまって母子家庭でしたからね。母親が苦労して僕と妹を一生懸命育ててくれました。そんな母親を見ていましたから、親孝行をしなきゃいけないなって思っていたので、わりと真面目に育ったような気がします」

――高校卒業後に就職されて

「そうです。大学に行きたかったんですけど、僕の時代はやっぱり大学に行くのはお金持ちという時代でもあって、高校を卒業したら就職するというのが一般的だったんです。

でも、僕はどうしても勉強したいと思っていたので、就職しながら、天王寺予備校というところで勉強していました」

――俳優になろうという思いは?

「全くなかったです。たまたま会社に三つぐらい上で歌がうまくて有名な先輩がいたんです。その先輩が『売れる、売る』っていわれて上京すると言っていたんだけど、それから2、3カ月したらまた会社で会ったんですよ。

聞いたら母親が亡くなったと。これはもうやめておけという天の啓示だろうということで、彼は上京するのをやめたんですね。

僕は彼の家によく遊びに行っていたので、その親戚の人で松竹のプロデューサーの方に何度かお会いしていたらしいんですよ。僕は覚えてなかったんですけどね。そのプロデューサーから、『あの子、うちへ来ないかな?』って言われたこともあったみたいです。

そのときはそのままだったんですけど、その先輩が新人募集みたいなのを調べてくれたらタイミングが悪くてダメで。東映のニューフェイス募集という記事を見つけて、彼が僕の写真を貼って書類を書いて出してくれたんです。

僕は全くそんな意識もなかったんだけど書類選考に通って、太秦(撮影所)に行って選考試験を受けて、第3次が東京の大泉学園の撮影所でしたね。それで第4次、最終試験が当時の東映の大川博さんという社長の前で受けました」

――応募者の数がかなり多かったそうですが、自信はありました?

「全然ありませんでした。自分自身を俳優なんていう目で見たこともありませんし。まあ、東京に行って後楽園球場で好きな巨人(軍)の野球の試合が見られるなって(笑)。応募者は4万人だと聞いていました。それで、男5名、女6名受かったんです」

――受かったと聞いたときは?

「『どうすりゃいいんだろう?』って思いました。それで、東映の本社に電話して、『給料はいくらいただけるんですか?』って聞いたら、『何を言っているんだ、こっちは金を出して養成するんだよ。とにかくやりなさい』って言われました。初任給が5千円ぐらいだったかな。それと厚生年金。それで会社を辞めて上京しました」

■養成期間を経て東映京都太秦撮影所へ

東映ニューフェイスに合格した堀田さんは、養成期間として半年間演技の勉強をすることに。

「当時は、『東映』の新人は『俳優座』で、『日活』の新人は『民芸』で演技の勉強をすることになっていたんです。それで半年間『俳優座』で勉強して、卒業公演を『俳優座』でやりました。

そのあと僕は大泉学園の東映撮影所で現代劇をやりたかったんですけど、工藤栄一という有名な監督さんが、『あの子、ちょっと絞り上げたら何とかなるかもしれない』って言うので京都の(東映)太秦撮影所に行くことになりました。

その頃は、まだ京都の方が格上だったんですよね。いろんなトップスターの方もいらっしゃるし、そういう方たちにご挨拶できるだけでも、自分自身のエキスになるかなと思っていました。それが、19、20歳ぐらいです」

――私が太秦撮影所に初めて行ったときは、「〇〇組」という看板がたくさんあるし、みんな関西弁でヤクザの組事務所かとビックリしました

「そうそう、その通りですよ(笑)。本当に役者もヤクザも一緒だなっていう感じで、すごい雰囲気のところですよね。だから、その頃、松方弘樹さんが、『朝、撮影が始まるまでが大変なんだ。車を駐車場に停めて俳優会館に入るまでが一番しんどい。

片岡千恵蔵さん、大友柳太朗さん、萬屋錦之介さん…そんなスターさんがズラーッといて、駐車場まで行きたいけど、それは失礼になる。挨拶が一番大事だから、一応玄関のところで降りて車を運転手さんに駐車してくれるように頼む。それから俳優会館まで走って行って、おはようございます。松方弘樹です。よろしくお願いしますって挨拶して、それで疲れてしまう』って言っていましたよ。それぐらいやっぱりすごいところでしたね。

僕は、たまたまラッキーなことに選ばれたけど、すごい大スターがいっぱいいて、七光りの二世スター、その関係者もいっぱいいらっしゃる。で、ジャンルの違う歌手とか芸人も…そういう人たちもいっぱい来て主役を張っている。これは来るところを間違えたなと思いましたね」

――お仕事は順調に?

「はい。半年もしないうちに、松竹京都から僕を使いたいというので行ったりしていました。『勉強してこい』と言われたし、東映じゃ僕の順番はないなと思ったので。

ちょうどその少し前からテレビが始まった時期でもあったもんですから、そこへ行ってまず芸名を決めようということになったんですよ。

どの映画でもクランクインの日、映画の題名とか芸名は、松竹でも東映でも全部占いの担当の方がいらっしゃったんですね。それで、松竹の占いをされる方がいるところに連れていかれて、芸名が『堀田真三』になりました。今は『堀田眞三』なんですけど。

半年ぐらいでしたかね。松竹が気に入ってくれて、ずっとレギュラーとかゲストでいろいろな作品で使ってくれたので、あそこで結構勉強できたと思います」

――東映ニューフェイスの間、5年間はお給料も出ていたのですか?

「はい。それ以外に松竹もそうだし、東映も仕事をしているとそれなりに出演料が出ました。それと、ありがたいことに応援しようとバックアップしてくだくださる人が出てきて。

バックアップというのは、東映はラグビーが強かったんです。僕はからだが大きかったので、山城新伍さんから、『ラグビーやれ』って言われてやるようになって。

ラグビーが終わったら、『打ち上げだ』って、韓国の人がやっている焼き肉屋さんに連れて行ってくれて、『これからお前は、東映ですって言って、この店は全部ツケてくれて構わない』って言われたんです。それで飲んで食べて。

それにその頃はビールが制作部に山ほど届いていたから、それを当時住んでいた東映の寮に持って帰って飲んで。そういうことも含めて、当時はただで飲んで食えるスナックとかクラブも何軒もあったので、本当に贅沢でしたね。

お金に不自由するとか、生活に困るということは全くありませんでした。モデルの仕事もやったりしていましたからね。衣装も随分いただきました」

■殴られて、蹴られて、撃たれて…

身長約177cmの長身で彫の深い顔立ちの堀田さんは、悪役を演じることが多くなっていく。

「悪役をやるようになったのは、わりと早かったです。2枚目はいっぱいいましたしね。僕が若いときは眼光が鋭くて彫りが深くて暗いし、髪の毛もいっぱいあって国籍不明みたいな雰囲気だから、そういう意味では使い勝手が良かったのかな(笑)。

僕としてはもっといわゆるトップクラスの役をやりたかったんですけど、なかなかうまくいかなくてね。一度、当時太秦撮影所の所長だった岡田茂さんのところにちょっと文句を言いに行ったことがあるんです。

岡田茂所長が歯磨きをしながら『どうしたんだ?』って言うから『俺をもうちょっといい仕事で売り出してくださいよ』って言ったら、『偉い、偉い!そうやって直接ここに言いにきたのは三島ゆり子以来2人目だ。そうか、頑張れ』って言われて。『わかりました。頑張ります』みたいな(笑)。そんなこともありましたね」

――それで、何か変わりました?

「変わりませんでしたね(笑)。でも、ありがたいことに、それから映画が斜陽になっていってテレビに移行していく。そういうタイミングだったので、仕事は切れることがなかったですね」

――本当に多くの作品に出演されていらっしゃいますね

「はい。それで、東映ニューフェイスの5年契約が切れるときに、日活でまずやろうってなって。内田良平さんが可愛がってくれて、『東京に遊びにおいでよ』って言ってくれたので、しょっちゅう東京に出てきて飲ませて食わせてもらっていたんですよ。

それで、日活にちょっと挨拶に行こうということになって。新しいスターを発掘するために、日活のオーナーが面接するということで連れて行かれたんですけど、横にいたプロデューサーが『堀田さんは、今日は挨拶だけです。今回うちが堀田さんを獲ったらトラブルになります』って言ったんですよ。

それは、中島貞夫監督の『あゝ同期の桜』という大作があって、僕は結構いい役をもらっていたんです。だから東映が売り出しにかかるはずだから、これからどこかでご縁があれば…という感じで日活が手を引いて。

それで5年経って東映のニューフェイスの契約が切れたので辞めて東京に出てきて、天知茂さん、内田良平さん、三船敏郎さんとか、いろいろな方に結構可愛がっていただいて、転々としていたんですよね。

その間ずっと、こういう風貌だからもっぱら悪役。殴られて蹴られて、それでズドーンって撃たれて。『切腹を申し付ける』、『遠島を申し付ける』、『打ち首を命じる』、そんな風にずっと命じられてばかり(笑)。

東映京都で思い出深いのは、行って2、3日してからかな。ニコニコした若い男が来て、『君の記事出とったわ』って新聞の記事を切り取って持っていて。

『俺はこれから絶対ポスターに名前が出るような俳優になるねん』って宣戦布告みたいな感じだったんですよ。何か独特の雰囲気を持っていてね。それが川谷拓三」

――実際にそうなりましたね

「はい。そうなりました。思い出がいっぱいあったな。彼はものすごくよく勉強していましたね。(東映京都)撮影所の食堂の2階に勉強する場所があるんですよ。そこで演技を勉強したり、立ち回りの練習をやったり。

彼が一番苦しんでいたのが土佐弁。土佐弁を直すのに苦労していましたね。でも、そうやって一生懸命直して両方使えるようになったら、それは自分の個性ですもんね。いい男でしたよ」

――川谷さんは、笑顔がとてもチャーミングな方でしたね

「クシャクシャッとした笑顔が、何か憎めない感じでしたよね。今とは違って時代ですよね。当時はみんなケンカっ早いし、バカなことばかりやっていました。酔っぱらって『よし、今日は消防署と警察署の看板を替えよう』って言って、大きな看板を取り替えたりしてね。おまわりさんに『お前ダメだよ、これは』って注意されて。それで済みましたけど、時代ですよね」

1967年に公開された映画「大忍術映画 ワタリ」(船床定男監督)で初めて特撮作品に出演して以降、特撮作品への出演も多く、「仮面の忍者赤影」(フジテレビ系)、「アイアンキング」(TBS系)、「仮面ライダー」シリーズなどで知られている。次回は海外作品などの撮影エピソード、安藤昇さんのお別れ会も紹介。(津島令子)

※堀田眞三(ほった・しんぞう)プロフィル

1945年10月20日生まれ。熊本県出身。1963年、第11期東映ニューフェイスに合格。1964年、映画「くノ一化粧」(中島貞夫監督)でデビュー。「キイハンター」(TBS系)、映画「安藤組外伝 掟」(梶間俊一監督)、映画「ザ・テノール 真実の物語」(キム・サンマン監督)、映画「霧の淵」(村瀬大智監督)、「クイズ!脳ベルSHOW」(BSフジ)などに出演。2024年、主演短編映画「終焉」で「ふくおか国際映画祭」俳優賞を受賞。2025年、「仮面ライダー」以来、53年ぶりに藤岡弘、さんと声優として出演した映画「〜運送ドラゴン〜パワード人間バトルクーリエ」の公開が控えている。