東映ニューフェイスとして俳優生活をスタートさせてから62年間、第一線で活躍を続け、多くのテレビ、映画、舞台、CMに出演している堀田眞三さん。「仮面ライダー」(TBS系)、「アイアンキング」(TBS系)など特撮作品にも多く出演し、1970年代から海外の作品にも出演。2018年、Mr.Childrenの「here comes my love」のMVに出演して注目を集め、「UQモバイル」のCM、「クイズ!脳ベルSHOW」(BSフジ)での天然キャラも話題に。昨年、主演短編映画「終焉」(古庄正和監督)で「ふくおか国際映画祭」俳優賞を受賞。今年は映画「〜運送ドラゴン〜パワード人間バトルクーリエ」(大東賢監督)の公開も控えている。(※この記事は全3回の中編。前編は記事下のリンクからご覧いただけます)
■1960年代から特撮作品、70年代には海外の作品にも出演
1967年に公開された映画「大忍術映画 ワタリ」(船床定男監督)に出演して以降、「仮面の忍者 赤影」(フジテレビ系)、「アイアンキング」、「仮面ライダー」シリーズなど多くの特撮作品に出演。
――特撮作品にも早くから出演されていますね
「そうですね。『仮面ライダー』では野本健というサッカー選手でトカゲロン。今でこそサッカーはすごい人気ですけど、あの当時はみんな野球でサッカーはそんなでもなかったんですよね。だから、サッカーに目をつけたのは、かなり早かった。すごいなと思いましたね」
――特撮では、「アイアンキング」も印象的でしたね。2000年前、大和朝廷から日本を追放された先住民族・不知火一族の長・不知火太郎役。彫りが深いルックスなので扮装もよく似合っていて
「助かりますね。顔が濃いのでいろんな扮装がわりと似合うから(笑)。『アイアンキング』は石橋正次さんと浜田光夫さんで。面白いのは浜田光夫さんって、吉永小百合さんの相手役をされていたりして大スターですよね。
それが私の代表作『アイアンキング』では完全に3の線の役。石橋正次さんはどっちかと言うと、ちょっとカッコつけた2枚目の線で面白かったですね」
堀田さんは、1970年代から海外の作品にも出演するようになり、ハリウッド映画「バトルストーム」(P・シャロン監督)、日韓合作映画「ザ・テノール 真実の物語」(キム・サンマン監督)など多くの作品に出演している。
――海外の作品に出演されるようになったきっかけは?
「一番最初は、オスカー女優のシャーリー・マクレーンさんの作品。イギリスの作品で、そのプロデューサーが『ハリウッドに行こう』って僕を引っ張ってくれた。でも、僕はその頃まだ意識が低くてそんなに積極的ではなかったんです。
それから僕は三船敏郎さんにも可愛がっていただいて三船プロにもよく行っていて、三船さんが、『ビッグ・ウェンズデー』(ジョン・ミリアス監督)という映画で世界のトップスターになったジャン=マイケル・ヴィンセントが主演する映画にゲスト出演することになったんだけど、降りちゃったんですよ。
それで、なぜか三船さんの代わりに僕が出ることになって、突然タイに呼ばれて。台本に『Look Like Mifune』って書いてあるんですよ(笑)。それが『バトルストーム』という映画でピーター・シャロンという大監督で約2カ月間。ジャン=マイケル・ヴィンセントとかサム・ジョーンズなどトップスターと共演させてもらいました」
――ハリウッド映画の撮影現場はいかがでした?
「何もかもスケールが違いました。僕は、契約書なんてよく見てなくて人に任せていたんですよ。相当分厚い契約書だったんですけど、ろくに読んでないし英語もよくわからないしね。
だけど身の回りのことをやってくれる人が3人くらい専属で付いてくれるし、僕がビール好きだということで、朝から僕のまかない専門の人がビールを持ってきてくれるんですよ。それで、『どのビールにしますか?日本から取り寄せますか?』とか、すごいんです。
ホテルも超高級ホテルで、1週間か2週間に1回、必ずパーティーをやるんです。トップスター連中、監督、プロデューサー全員勢ぞろいして、そのときに必ず通信社のUPIさんとか記者さんが60人ぐらい集まって取材されるんですよ。
僕は、いつもそこは1人だった。日本から奥さんとか恋人を連れて行っても良かったみたいですけど、契約書もろくに見てなかったですからね(笑)。奥さんを海外ロケに連れて行くなんて発想は全くなかった。
とにかくもう何もかも異例ずくめでして。僕なんかでもウェルカムパーティーをやってくれたりね。よく飲んだなあ(笑)。それに『どんな車がいいですか?用意します』とか言われましたけど、僕はそんな特別こだわりないですからね。
それから必ず通訳はロイヤルの資格を持っている人、それにタイ人がひとり付きます。それに英語を話す日本人の付き人がひとりついて、運転手さんも付くんですよ、いつも。
それで、ホテルを出て行くときにみんな何かメモしているんですね。何をメモしているかと言ったら、『今日は、契約書でホテルに帰ってくるまでが10時間以内でなければならない』とか、『今日は現場を8時間以内に終えて帰ってくる』って書いているんですよ。
映画の撮り方のシステムも日本とは違っていて、日本は1カメで撮るんですけど、向こうは3カメとか何台ものカメラでやるんですよね。それで『本番スタート』になると、主役のジャン=マイケル・ヴィンセントをはじめ、誰でも途中で平気で動きを変えるんです。
それで変えて良ければ、『ナイスビジネス!』という言い方をしていましたね。僕も、あるシーンで、きれいな花が咲いていたから、その花を摘んで手渡すというのを入れたら『オッケー、ナイスビジネス。もう1回撮り直そう』って、5回10回平気でやっていましたね。
あの頃日本では『フィルムが高い』って言われていた時代ですよ。日本と全然違うなあって思いました。
銃弾を撃つシーンでは、僕が200メートルくらい離れて見ていたら、『危ないから離れてください。飛んでくるぞ』って言われて。本当に危ない。それがやっぱり迫力が違うんですよ。
僕が機関銃を撃つシーンがあって、日本で機関銃を撃つシーンをやったときは、撃った反動を表わすために自分でからだをダダダダッて揺らすんですけど、向こうのやつは自然にものすごい反動があるんですよ。この迫力はやっぱりアメリカの映画に勝てないなと思いましたね」
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■売れていても挨拶もしない有名人は…■売れていても挨拶もしない有名人は…
堀田さんが東映ニューフェイス時代を過ごした東映京都太秦撮影所は、昭和の初期に「日本のハリウッド」と呼ばれたところ。多くの時代劇をはじめ映画、ドラマを世に送り出し、結髪さん、衣裳さんもプロ中のプロがそろっていることで知られている。
――いくら売れていても芝居が下手でNGを多く出すと『誰や?こんな下手な役者を東京から呼んだんは!』と言われて、心折れて帰ってきた俳優がいると言われていましたね
「そうそう。そんなのは平気だったですね。東京で売れている女優さんが京都に来て挨拶もしないでメイク室に行って無視される。それで、演技科に行って、『メイクしてくれない!』って文句を言うから演技科の俳優担当がお願いしに行くと『私はね、美空ひばりさんの時代からやっているの。挨拶もできないような女優さんのメイキャップなんかしないわよ。まずはちゃんと挨拶しなさい!』って、そこから始まる
あと、売れているからといって、お付きの人をぞろぞろ引き連れて結髪のところに行くと、結局邪魔くさいから何にもしてもらえなかったとか、そういう活動屋らしいというのかな。やっぱりありますね」
――その代わり、仕事は完璧でプロ中のプロという感じがします
「そうですね。昔はいろいろありましたね。助監督さんが日本酒を持って照明部に挨拶に行かなかったら、当たってケガはしないように機材を落とされたとか、挨拶もしない女優さんには照明を当ててあげないとか…いっぱいありました。
今は機材が良くなってカメラや照明なんかもずいぶん軽くなりましたけど、昔は何十キロもありましたから、スタッフは全部男性でした。だから、この間も現場に行ったらカメラがちっちゃくてね。照明なしでも大丈夫だって言うんですよ。本当に不思議。メカニックの進歩ってすごいですね」
――今は映画もデジタルが多くなっていろいろなことが出来るようになりましたが、ありがたみがちょっと薄れた感じがします
「そうですよね。僕らもフィルムの時代はNGを出したら、『お前、チンピラのくせにセリフぐらい覚えとけ!フィルムは高いんや!』って怒鳴り散らされて、3回も4回もNGを出したら監督が『堀田、お前か!バカヤロウ』って怒られて始末書を書かなきゃいけなくなる。
そんな感じでフィルムというのが本当に貴重だったんですよ。
だから『ヨーイ、スタート!』で腹をくくるというのがよくわかりましたね。フィルムで鍛えられているから。シーンナンバーを白木にチョークで書いてカチンコを鳴らしますよね。そうするとチョークの粉がフーッと空中に舞うんですよ。その白い粉が消える頃にセリフを言い始める。だから皆さん独特の間を持ってらっしゃったんです。
いっぱい怒られましたけど、いい経験でした。今は怒れないですからね。現場でスタッフがやらかした若い新人に『こらっ、お前!』って言ったら、『私は親にも、こら、お前なんて言われたことはありません。辞めます』って言って辞めていく人がいたって。僕らは昭和の人間ですから、『根性』とか『気力』で生きてきた面がありますね」
――「24時間働けますか?」というコマーシャルがあったりしましたからね
「今じゃあり得ないでしょうね(笑)。本当に肉体労働者という感じで。よく山城新伍さんに『人間な、生まれてきて死んでいくだけや。人生死ぬまでの暇つぶし。おしゃれで元気で楽しく生きていこうな』って、そんな風に言われましたね。
先輩たちも遊びながらいろんなことを教えてくれました。丹羽哲郎さんも不思議な人だったですね。『Gメン75』(TBS系)に出たときに『堀田くん、君はまだ悪役をやっているのかね?』 と言ってくれただけでうれしかった。それも一つの思い出、励みになる思い出ですね」
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■安藤昇さんが作ってくれた「男の花道」■安藤昇さんが作ってくれた「男の花道」
現在の東京・渋谷の街の原型を作ったと言われ、ヤクザの組長から俳優になった異色の経歴を持つ安藤組の元組長・安藤昇さん。1958年に安藤組を解散。1965年に自らの自叙伝を映画化した「血と掟」(湯浅浪男監督)に主演し、映画俳優に転身。小説家、歌手、プロデューサーなど幅広い分野で活動した。
――安藤昇さんの作品も多いですね。一度取材をさせていただいたことがありますが、穏やかな方でした
「本当に懐が深くてすごい人ですね。安藤さんは俳優になるつもりなんて全くなかったんですよね。でも、カッコいいし、生き様がものすごくドラマチックだったから、松竹のプロデューサーが『今までの生き様を作品にしたい。出てください』って何度も来ていたんですけど、安藤さんは、『俺は役者になるなんてとんでもない』って断っていたんです。
だけど、あまりにもしつこく来るから、『今日で最後にしてやる』って決めて、『松竹で1番高い役者のギャラはいくらだ?』って聞いたら『佐田啓二さんですかね。250万ぐらいです』って言ったんですって。今で言うと2000万円くらいでしょうかね。
それを聞いて安藤さんは、『よし、わかった。じゃあその倍出したら出てやろう』って言って。そう言ったら相手が逃げるだろうと思ったのに『出します』って言われちゃって(笑)。それで出演することになったって言っていました。
1965年に安藤さんが自らの自叙伝『血と掟』という松竹の映画で役者デビューしたら大ヒットしたんですよ。ところが、松竹としたら文芸路線で売ってきたこともあって、株主さんや関係者から異議が出たんですよね。安藤さんのああいう作風は違うと。松竹はヤクザ路線じゃないって。
それで東映でやることになって、安藤さんは主演映画が60本くらいあるんですけど、その筋の人が見に行くから全部ヒットしているんですよね。 僕は、『安藤のおやじ』っていうぐらい可愛がっていただきました。
おやじは赤坂と渋谷に自分の事務所を持ってらっしゃって、いつも麻雀をやっているんだけど、そこに大越くんという若い人でキレ者がいるんですよ。彼がちゃんと親分とわかるような挨拶の仕方をするんです。『堀田さんが見えました』『うん、じゃあ、そこでちょっと待っといてくれ』という感じでね。
その言い方で、通してもいい人か、帰す人か、サインを交わすんです。おやじは頭がいいし、抜群に言葉遊びが楽しかった。『果報は寝て待てということわざがあるだろう?どういう意味だ?』って言われたから『やることをやったら寝て待てということじゃないですか』と言ったら『違う。本当はね、果報は寝ているふりをして待つんだ。本当に寝てしまったら来ない。何で寝たふりなのかと言ったらそれが一番楽でいいから』って(笑)。何かすごく面白いんですよね。
粋でおしゃれ。撮影が終わったら、おやじの周りに女優さんとか、自然にみんなフワ―ッて寄って来るんですよ。おやじはそういう独特の雰囲気を持っていましたね。
もちろん女性にはモテたんですけど、男性もものすごく惹かれるというか。誰もが惹かれるそういう魅力がありましたね。腹のくくり方も違いました。戦争中に予科練から特攻隊を志願して外国の船に魚雷と一緒に突っ込んで死ぬ人間魚雷になるつもりでいた人ですから。いつでも命をかけたって」
2015年12月16日、安藤さんは89歳で逝去。翌年2月28日に「安藤昇 お別れの会」が東京・青山斎場で行われた。
「おやじが亡くなって、俳優代表の弔辞を誰にしようかということになって。監督代表は佐藤純彌さんが体調悪かったので中島貞夫さん。俳優代表は、健在なら菅原文太さんですよ。
ずっと文太さんの面倒を見ていましたからね。
文太さんも仕事がない時期があって、松竹で僕が子ども番組の相手役をやっていたときに文太さんも一緒にやっていたことがあったんです。それが安藤さんに誘われて復活したんですよね。でも文太さんは亡くなっていたし、松方弘樹さんは歌のショーの仕事が入っていて、梅宮辰夫さんは体調が悪かった。
それで、誰を俳優代表にするかとなったときに、『そういえば、安藤さんが一番可愛がっていたのは堀田眞三じゃないのか』ってなって一件落着。
『いろんな方がいらっしゃるのに僕なんかでいいんですか?』って言ったんだけど、多田(憲之)社長も岡田裕介会長もOKで東映が全面的に仕切ることになったんです。それで当日、青山葬儀場に行ったら、周辺に刑事さんがいるんですよ。刑事役も散々やってきたから雰囲気ですぐにわかるんですよね。
それで会場に入ったら、あんなにすごい花盛りっていうのかな。見たことがないですよ。びっくりしました。正面におやじの大きな写真があったので、手を合わせて頭を下げて。それで、右と左に大きなテレビがあって、そこで中島貞夫監督が撮った安藤のおやじの主演映画を流しているんです。
そして、お別れの会が始まると、向かって右側に400人ぐらい全部有名なヤクザの親分とか右翼の人がいっぱいで、入りきれない人が表に溢れているんですよ。だからおまわりさんが来ているんだなって。
向かって左側には、芸能関係の社長、プロダクションの人とか、スターさんがいっぱいいる。そのとき、『何で堀田が俳優代表なんだ?』ってやっかみがものすごかったみたいです。
それで、中島貞夫さんが立派な弔辞を読まれて、『さすがだなあ』って感激していたら、『俳優代表弔辞・堀田眞三さん』って担当の方が僕を迎えに来てくれたので立ち上がったんですけど、『視線が痛い』って初めて感じました。
左右約800人が全部一斉に僕を見ているわけですよ。でも、立ち上がった瞬間に『これはおやじが俺のために作ってくれた“男の花道”だ』と。安藤のおやじが俺に『頑張れ!』っていうエールを送ってくれていると思ったので、スーッと気が楽になったんですよね。本当におやじには可愛がってもらいました」
悪役として圧倒的な存在感を放っていた堀田さんだが、2011年に出演した日本・中国・韓国の合作連続ドラマ「STRANGERS6」がきっかけでオファーされる役柄が変わって来たという。次回は、「STRANGERS6」、Mr.ChildrenのMV、「UQモバイル」のCM、「クイズ!脳ベルSHOW」、「ふくおか国際映画祭」俳優賞を受賞した主演短編映画「終焉」の撮影エピソードなども紹介。(津島令子)