被災から3カ月…全焼した写真館の店主が輪島を離れない理由 能登半島地震

[2024/03/30 11:13]

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3階建てのスタジオ兼自宅は、茶色く焼け焦げ、外壁のコンクリートが剥げて鉄骨がむき出しになっていた。

焼け跡には、灰にまみれたストロボと望遠レンズが転がっていた。奥に進もうとしたとき、足に何か触れた。石だと思ったそれは、よく見ると、熱で溶け、ほぼ原型をとどめていないキヤノンのボディだった。

全焼した「フォトわらびの」内に残された撮影機材=2024年2月7日、石川県輪島市

「何も残ってないっすよ。全部燃えました」。カメラの持ち主はそう言った。

創業76年の写真館。
能登半島地震から1カ月あまり経った2月上旬。パラパラと、冷たくて小さな雨が降りやまない日だった。
取材の時間になってもやまず、延期を考えていた私に店主の蕨野敬さん(46)は「僕はそのままでいいですよ」と言って、上着のフードをかぶったまま、スタジオまで案内してくれた。大規模な火災によって壊滅的な被害を受けた、輪島市河合町の「朝市通り」から一本南側にずれた通りにある「フォトわらびの」は、まだ煤のにおいがした。

インタビューに応じる「フォトわらびの」店主の蕨野敬さん=2024年2月7日、石川県輪島市

終戦後まもない1948年に、祖父母が前身となる「わらびの写真館」を輪島市内で創業。叔父や父が継ぎ、蕨野さんで4代目だ。輪島市内の高校を卒業後、東京の専門学校や福井県の写真館での勤務を経て、23歳で継いだ。蕨野さんが生まれる少し前に今の場所に新しく建てられたのが、スタジオと店舗、自宅を兼ねたこの3階建てビルだ。

「まるで自分の子どものように」晴れ舞台、成長を見届けた

もともと写真がすごく好きだったのかというと、「そこまででは…ないですね。職業カメラマンですから」と苦笑いする。スポーツ観戦の方が打ち込める。それでも、店を継いだその日から20数年にわたり、地元の人々の晴れ姿をファインダー越しに見つめてきた。

全焼した写真館「フォトわらびの」=2024年2月7日、石川県輪島市

生後100日、七五三、入学式、イベント、卒業式、成人式、結婚式。輪島市内の学校では、毎年卒業アルバムも担当してきた。

「うちのスタジオに来ていただいた方が、楽しんで撮影してもらうだけでなく、撮った後もずっと宝物にしてもらえるような写真を撮りたい、という思いだけでしたね」

一番大変なのは、赤ちゃんや子どもだ。「笑顔はやっぱり難しい。笑ってもらうまであの手この手でやって、笑顔が撮れた時、お父さんお母さんも一緒に喜んでくれるのを見ると嬉しい。写真やっていて良かったなって思うのはそういう瞬間かもしれない」
七五三や入学式のたびに違う顔になってスタジオに戻ってくる。卒業アルバムを作りに蕨野さん自身が学校に行って撮影もする。まるで自分の子どものような感じで見届けてきた。

そんな蕨野さんを、小さい頃から可愛がってくれたのが、町の人たちだった。
おしゃべりが好きな蕨野さんは、近所のおじちゃん、おばちゃんと交わすたわいない会話が好きだったという。「風邪引くなよとか、太ったねーとか。ほんとしょうもない会話なんですけど」。近所の子からは「写真のにいちゃん」と呼ばれていたという。

全焼した写真館「フォトわらびの」のスタジオ=2024年2月7日、石川県輪島市

能登半島地震で起きた火災は、当たり前だった日常を、一夜にして別世界に変えてしまった。

消防団員として20年以上 「初めて」の経験

蕨野さんには、カメラマンとはもう一つ別の顔がある。輪島市消防団輪島分団の団員だ。

元日、蕨野さんは1階で撮影したデータを編集する作業をしていた。午後4時。仕事を切り上げて店を閉めようとした時、最初の揺れが来た。スタジオがある2階に上がって照明や撮影機材に何もなかったことを確認、3階で休んでいた両親も無事でホッとして、親戚からの電話に「大丈夫だよ」と伝えて電話を切った直後、震度7の揺れに襲われた。

全焼した写真館「フォトわらびの」のスタジオ=2024年2月7日、石川県輪島市

立っていられず、スタジオでは物が落ちるガシャンガシャンと言う音がした。大津波警報を伝える市の防災無線が聞こえた。
「早く両親を連れて逃げないと」と焦るが、家中の物がひっくり返り、うまく歩けない。両親を安全に歩かせるために散乱した物を片付けようとして、頭をぶつけた。右の眼のあたりに手を当てると生暖かい液体を感じた。眉毛のあたりから激しく出血していた。

電気のつかない自宅で手探りで怪我の手当をしているうちに、ふと、窓ガラスの向こうが明るいことに気づいた。
「何でこんなに明るいんだろう」。窓を開けたら、火が見えた。家を飛び出した。


同じ分団員と合流し、消防車両を取りに急いだ。「その時はまだ1軒か2軒燃えているだけだったので、今すぐ消防車を持ってきて火を消せば、消せると思っていた」

輪島分団が持つ消防車は、河原田川を挟んで東と西に分かれて1台ずつある。蕨野さんが取りに行ったのは、「いろは橋」を渡った西側の1号車だ。ところが、取りには行ったものの、運転して戻ることはできなかった。橋がかかっていた地面が地震で大きく隆起し、段差ができたためだ。


「川の水を汲み取ろう」と、いろは橋近くに消防車両をとめ、梯子を降りて川の水を汲み上げる準備をした時、息を呑んだ。

「水がなかったんです」

「朝市通り」の西側にある河原田川。地震の影響で水が少なくなっていたという=2024年2月7日、石川県輪島市

過去20年以上の消防団員としてのキャリアがある蕨野さんにとっても初めての経験だったという。「前回(2007年)の地震の時も、波がひいていったと思うんですけど、全くない、と言うのはなかったと思う」

どうして良いか分からず、いったん消防車両を橋の手前に残し、再び走って朝市の方向へ戻った。家に残した両親を安全なところに避難させ、東側から朝市通り周辺に駆けつけた2号車による消化活動に当たった。防火水槽の水が底をつくと今度は海へ走った。津波警報は解除されていたが、真っ暗ななか、別の消防車を中継させ、何十メートルといった長さのホースを繋いだ。

ガスボンベや、車に火が移り、「ボンボン」とあちこちで音がしたことや、自宅の後ろにまで火の手が迫っていた光景は覚えている。「自分の家も燃えるんかなとも思いましたけど、そんなこと考えたのは最初ぐらいで、あとはとにかく火を消したい、水を確保しよう、それしか頭になかったです」

全焼した写真館「フォトわらびの」(中央)=2024年2月7日、石川県輪島市

スマホも、腕時計も持っていなかった。どれくらい経過したのか、まったく分からなかった。

気づくと、夜が明けていた。
「31日の風景とはまったく違う、別世界だった」

「写真屋さんは、街に元気がないと成り立たない」


仕事も住まいも失った。本当に復興できるのかな、と思うこともある。
だが、蕨野さんは輪島を離れるつもりはないという。
「ちっちゃい頃から住んでいるし、僕にとっては本当に大好きな地域で、皆さんに育ててもらったから。どこかで恩返しがしたいという思いはあります」

全焼した写真館「フォトわらびの」内に残された焼けたレンズ=2024年2月7日、石川県輪島市

3月、輪島市内で行われた小学校の卒業式で、カメラを手に晴れ舞台を撮影する蕨野さんの姿が地元メディアに伝えられていた。20年以上前に勤めていた福井県の写真館が、使っていないからと貸してくれたという。2カ月半ぶりに手にしたキヤノンの5D MarkIV。今まで使っていたのと同じモデルだが、ずしんと重く感じた。

子どもたちは、全員が被災しているにも関わらず、笑顔を向けてくれた。

蕨野さんが震災後に撮った写真。この春卒業した女子生徒(右から2番目)と家族の写真だ=2024年3月、「フォトわらびの」のInstagramより

街の写真屋さんは、人がいて、街に元気がないと成り立たないと蕨野さんは言う。だから、多くの人が市外で避難生活を送っている間は、本格的に仕事が復活できるかはわからないと話す。

「今はまだカメラ1台だけど、少しずつ、機材を集めて環境を整えたい」。すでにストロボなどを貸してもらえる算段が進んでいる、と弾んだ声で話してくれた。

「いつか、輪島の若者が戻ってきて『写真を撮りたいな』と思った時に、いてあげたいですね」

まもなく入学式。今年もたくさんの笑顔と出会えますように。

(取材:今村優莉、撮影:井上祐介、石井大資)

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