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2025年2月4日 14:43

土屋アンナ モデルからバンドのボーカル、そして俳優に。映画賞総ナメ状態の20歳で結婚と妊娠を発表!

2025年2月4日 14:43

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14歳のときにモデルデビューし、カリスマモデルとして人気を集めた土屋アンナさん。18歳でロックバンドのボーカルとして歌手デビュー。20歳のときに映画「下妻物語」(中島哲也監督)に出演。日本アカデミー賞新人俳優賞をはじめ、2004年度の映画各賞を八つ受賞。私生活では3度の結婚で2男2女の母。自然体で昔ながらのワイルドな子育て方法も話題に。現在、「プライベートバンカー」(テレビ朝日系)が放映中。映画「BLUE FIGHT 〜蒼き若者たちのブレイキングダウン〜」(三池崇史監督)が公開中の土屋アンナさんにインタビュー。(※この記事は全3回の前編)

■ヤンキーの役だと聞いてすぐに「オッケー」って(笑)

東京・渋谷区で生まれ育った土屋さんは、14歳のときにモデルをしていた姉の紹介で自身もモデル活動をはじめることにしたという。

――モデル始めたのが14歳ということですが、小さい頃はどんなお子さんでした?

「子どもの頃から音楽、歌うのと絵を描くことは好きでした。あと運動ですね」

――表現力というのは小さい頃からあったのでしょうね

「そうなんですかね。わからない。自分では表現ができているのかわからないですけど、人の前に立って何かをするというのがすごい好きな子でした」

土屋さんは、雑誌「SEVENTEEN」(集英社)の専属モデルを1年間務め、テレビ、ファッションショー、CMなどにも出演。カリスマモデルとして人気を集めることに。2002年にはロックバンド「Spin Aqua」のボーカルとして歌手デビュー。

2004年には、映画「下妻物語」に出演。この作品は、茨城県下妻市を舞台に、ロリータとヤンキーという正反対の価値観を持つ2人の少女の友情を描いたもの。土屋さんは、地元の暴走族に所属する17歳の少女・イチゴ役を演じた。

――圧倒的なパワーを感じさせる存在感に衝撃を受けました

「本当ですか?でも、そういう演技の勉強とかは全然してなかったので、もしかしたらリアル、リアリティっていうのを演じるのが得意なのかもしれなくて。何か頭で考えるより、そのときの本能で、空気で…というのを、もしかしたら監督が見てくれたのかなとは思います」

――最初「下妻物語に出てくれないか」と言われたときはどう思いました?

「ヤンキー役って言われたので、すぐに『オッケー』って言いました(笑)。そんな感じです。普段の生活からやっぱり頭で考えるというよりも、ヤンキーっていうのを聞いたときに、『ヤンキーがイコール悪い』ではなくて、やっぱり人間で、それぞれのバックグラウンドがあって、その中の1人の子の何を私ができるかなって思って。

見ている人に『悪いやつだったね』じゃなく、見る人によっては、『あっ、この子はもしかしたら いい子なのかもしれない』と感じさせるような、そういう何か深いものをやるのが好きだったので、監督から言われた瞬間に一発で『やります!』って言ったら受かっちゃって(笑)」

――正義感が強くて曲がったことが大嫌いで、みんなが好きになる“イチゴちゃん”でした

「ありがとうございます。やっぱりストーリー的にもそうですよね。何か自分がうまくない部分、自分が上手に生きられていない部分が多分レディースチームっていう風になっていったのかもしれないけれども、そこにはもしかしたら寂しさがあったりとか、自分の弱さがあって。

なので、それを監督が本当に『下妻物語』で深田恭子ちゃんと対比することでそれがもっと表われて。2人の友情というので、見た目は違えど、生き方は違えど、友情によって人間の愛が生まれるみたいなのが書いてあったので、やっていて楽しかったですね。

あの映画があんなに大きくなるとは思ってなかったけれども、自分もあの作品を見た時に感動したし、笑いもあったし、人間が作り出す映像作品で、私も一番好きです」

――インパクトが強くて、実際に映画賞を総ナメ状態でした。その状況は、ご自身ではどう感じていました?

「意味がわからなかったですね。普通にやっていたので。あのときは多分授賞式の日もちょっと覚えているけど、『何でだろう?テンテンテン…』みたいな感じで(笑)。『何がいいんだろう?私の何を評価してもらったのかわからない』っていうまんまでしたね。

でも、その後にいろんな映画の作品の話が来て。こういう自分が突発的に発散する役というのを監督が求めてくださる作品が多かったので、そういうところに私はもしかしたら向いているのかもしれないなって思うようになって。

その後も、蜷川実花ちゃんの作品とかもそうですけど、今回の作品も役柄的にそういうタイプの人を演じるようになりましたね」

同年、映画「茶の味」(石井克人監督)も公開された。この作品は、日本の美しい自然を背景に、それぞれ心にモヤモヤを抱えた家族の日常風景を描いたもの。土屋さんは転校生のアオイ役で出演。

「公開は『下妻物語』が早かったんですが、撮影は、『茶の味』のほうが先で、初めての映画だったんですよ。そのときは演技も初めてで、言われるがままでした。『はい、ここで座って』とか『セリフをこういう風に言って、彼に恋して』という感じで。

自分をガーッとさらけ出すタイプの役じゃなかったので、本当に初心の心でその作品に入っていただけだったかもしれないですね。あまりセリフもなかったし、雰囲気で…という感じで。何か不思議な世界観でしたよね。思いっきりコアな感じです」

■20歳で結婚と妊娠を発表、そして第1子出産

「下妻物語」と「茶の味」で第47回ブルーリボン賞新人賞など多くの映画賞を受賞し、注目を集めた土屋さんだったが、すぐに結婚と妊娠を発表。

――その年の映画賞を総ナメ状態でこれからというときに結婚と妊娠を発表して出産。衝撃的でした

「そうですよね。自分の人生を振り返ってもそう思います(笑)」

――それまでそういう方はいらっしゃらなかったじゃないですか。20歳で新人賞総ナメにしてすぐに結婚、出産…ロックだなあって

「本当ですね。私もあんまり何が正解かというのは、人間にはないと思っていて。何がいい人生か、何がダメな人生かってジャッジする人も別にいなくていい世界だと思っているので。

人生は台本通りには行かなくて当たり前だと思っているけれども、子どもが好きなので、子どもができたのはうれしかったですね。あとは自分が一生懸命やっていったら周りもついてくるだろうなと思って。逆に周りにも支えられていたので、やって来られたという感じです。いつか三池(崇史)監督に『私の人生の映画を作ってよ』ってお願いしたいですね(笑)」

――3度のご結婚で現在4人のお子さんのお母さん。先日“伝説の家政婦”志麻さんのテレビ特番に次男の心羽(シンバ)さんと出てらっしゃいましたね

「そうそう。志麻さんの料理は、シンプルだからいいんですよね。うちは子どもがいっぱいいるので、シンプルで食材のお金があまりかからなくておいしいものを作るというのを目指している。うちはハンバーグなんて1kg作ってもすぐになくなっちゃいますからね(笑)。だから志麻さんにはいっぱい教えてもらっているし、志麻さんの料理の本も5冊ぐらいあります」

――志麻さんのおうちのDIYのお手伝いに行ってお料理のお話を真剣にされていましたね

「家を動かす手伝いに行ったのに、料理の話を一生懸命やっていたかもしれない(笑)」

――土屋さんがなぜ料理のことを一生懸命聞いているのか、心羽さんが番組スタッフにちゃんと説明してあげていましたね。「前日作った晩ご飯に納得してないみたいで」って。いい子だなと思ってホッコリしました

「ありがとうございます。今の時代って、子どもたちに危ないことはさせないとか、学校でも運動会で1着、2着をつけないとか、嫌なことはやらなくていいとかって変に守りすぎだと思うんですよ。

そんな中で、うちはものすごく昔ながらのスタイルですね。結構そういう人たちが私の周りには多い。昔って、自分の子どもじゃなくても、他の家の子も、周りの大人が子どもを育てていく時代だったじゃないですか。

帰り道にパン屋さんが声をかけてくれたり、八百屋さんが声かけてくれたり。でも、そういう時代じゃなくなったのは、確かに危ない時代になってきたというのもあると思うんですけど、昔のようにみんなで子どもを育てているというのが、私は日本のステキなところだなと思っていて。

今の時代は、先生が生徒を怒ると学校にすぐ苦情がいったりするじゃないですか。でも、私はどっちかっていうと昔ながらのスタイルがいいなって思っている。

レールを引かず、ジャッジをせず、うちはうちでこういう感じっていう風にやっているので。うちの子はもちろん、友だちの子どもがうちに来たときもダメなものは『ダメ!』って言う。

その代わり、ダメだと言うのは嫌いだから言っているんじゃなくて守りたいからだと。自分の子だけじゃなくて、他のうちの子も命を預からなきゃいけないんだから責任があるということを伝える。

正解か不正解かはそれぞれが決めればいいんですけど、私の周りの友だちとかもそっちのスタイルですね。だから、運動会とかの1位とか2位をつけることも必要だと思う。今みたいに速い子は遅い子を待って全員で一斉にゴールとかじゃなくてね。

やっぱり負ける悔しさを知るとか、負けて自分が努力するということも大切だと思う。結果は勝ち負けっていうところで人はジャッジするかもしれないけれども、そこではなく、痛みや悔しさを知ったことによって自分がどう成長するかというのは絶対的に必要だし、自分たちはそうやって生きてきましたからね。

自分たちがそういう風に生きてなかったらいいんですけど、そうやって生きてきたから、子どもたちにも“踏ん張る力”というのはつけてあげたいなと思っています。

だから『あれはダメ!これもダメ!』とは言わない。やらせておいてダメだったら、『ほらね、じゃあ次はどうするの?同じことはやらないでしょう?』っていう感じでやっていますね。

今は学校とかに行くと寂しい。運動会でみんな一緒、『1等がいっぱいいるとかって嘘でしょう?』って。子どものときに勝ち負けを知ることは必要だと私は思いますね。ダメでもそこに向かって一生懸命やった、そのプロセスとか、頑張ったという経験、それがやっぱり大切だと思う」

■痛い思いもいっぱいして傷ついたことも

20歳という若さで母親になった土屋さん。決して過保護にすることなく、自然の厳しさや豊かさを体感させながらのワイルドな子育てが話題に。

――子育ての方針もしっかりされていますし、みんな良いお子さんたちですね

「ありがとうございます。私は基本的に結構雑なんですけどね(笑)。出会った人みんなのおかげじゃないですか。うちの母もそうだし、おばあちゃんもそうだし、学校の先生もすごく厳しくて、怖い先生だったし。

いっぱい怒られたりしたけど、そういう人たちに私はいじめられたとか、ひどい目にあったとは思わないんですよ。怖くて良かった、学べたなって思う。

だから、誰がっていうより、私が育った環境にいた大人たちがきちんとそういうことを、私に愛情をかけてくれた人たちがいたから知ることができた。でも、これが例えばそういう環境じゃない子どもたちもいるじゃないですか。そこになるとまた話が変わってきてしまう。

自分はそうだったから、自分もそうしたい。で、それがいいと思ったから広めたいと思うし、そうできない子たちの代わりにやってあげたいとか、そこに繋がるので。

今もそうですけど、メイクさんもそうだし、みんなで支えてくれているんですよね。そこに感謝っていう言葉が生まれて。人と人がぶつかり合っても感謝できる関係を作り上げていきたいなって。多分自然とそうなっていったんだと思います」

――若くしてカリスマモデルとして人気を集め、歌手、俳優と幅広い分野で活躍されていますが、とても堅実ですね

「それはやっぱり自分も若いときは、『芸能人、モデル』みたいになったかもしれないけど、それこそ痛い思いもいっぱいしているので、傷ついたこともあるし。だから、多分そこで自分は一人で立ってないということがわかったというか。今も学んでいる最中なんだなって 思って。やっぱりそうじゃない人とかも見ているんですけど、何だかんだ言っても表に出る人って、舞台を作ってくれる人がいないと立てないじゃないですか。

メイクさんがいないときれいにしてもらえないし。周りの人がいないと私たちは前に出られないんですよ。だから周りも私も同じ立ち位置だと思っていて。お客さんもそうです。お客さんが0人だったら場所がないんですよ。お客さんが時間を割いて、お金を払って見に来てくれるからパフォーマンスが出来る。お客さんが私を立たせてくれているんですよ。

そこにやっぱり感謝の気持ちが生まれるから、頑張ろうとも思えるし、自分は一人でやっているわけじゃない。自分なんかちっぽけだ。でもこの人たちがいるから頑張ろうって思える。もう本当に周りのおかげですね」

プロポーションの良さが際立つルックスに謙虚な姿勢が清々しい。モデル、歌手、俳優、子育てと超多忙な日々の中、2009年にはオムニバス映画「BLUE PACIFIC STORIES」の短編「フィッシュ・ボーン」で映画監督にも挑戦。次回は主演映画「さくらん」(蜷川実花監督)の撮影エピソードなども紹介。(津島令子)

※土屋アンナプロフィル

1984年3月11日生まれ。東京都出身。1998年、14歳でモデルデビュー。2002年、ロックバンド「Spin Aqua」のボーカルとして歌手デビュー。映画「下妻物語」、映画「嫌われ松子の一生」(中島哲也監督)、映画「GONIN サーガ」(石井隆監督)、「S-最後の警官―」(TBS系)、「プライベートバンカー」、舞台「ALICE〜不思議の国のアリスより〜」などに出演。ロックバンド「BLVCKPHOENIX」(ブラックフェニックス)のボーカルとしても活動。映画「BLUE FIGHT 〜蒼き若者たちのブレイキングダウン〜」が公開中。

ヘアメイク:佐伯エミー

スタイリスト:沢田結衣