
1995年、川田広樹さんとお笑いコンビ「ガレッジセール」を結成し、「エンジョイプレイ」、「ワンナイR&R」(フジテレビ系)でのキャラクター「松浦ゴリエ」でブレイクしたゴリさん。連続テレビ小説「ちゅらさん」(NHK)、映画「探偵はBARにいる2 ススキノ大交差点」(橋本一監督)など俳優としても活躍。映画監督としても知られ、照屋年之名義で監督・脚本を手がけた映画「洗骨」で日本映画監督協会新人賞を受賞。現在、最新監督作「かなさんどー」が全国公開中のゴリさんにインタビュー。(※この記事は全3回の前編)
■「すごい!」と言われたくて早稲田大学を目指すが受験日当日に緊急入院

本土復帰1週間後に沖縄で生まれたゴリさんは、小学校に上がる6歳のときに大阪の親戚の家に預けられ、家族バラバラに暮らすことになったという。
「大阪は人口も多いし関西弁、友だちもいないし親とも離れ離れだし…。初めて会ったおじさんおばさんの元で急に生活することになったので、6歳の少年にとってはかなり精神的な負担は大きかったですね」
――沖縄に戻ったのは?
「小5の2学期に沖縄に戻って来ました。ホッとするつもりで帰ったはずなんですけど、6歳から5年くらい親と離れて暮らしていたので、どう接していいのかわからなくて反発するようになってしまいましたね、親に」
――その頃は将来何になりたいと思っていたのですか?
「何も考えていませんでした。ただその日その日をどう楽しく生きるかばかりをやっていたような気がします。いいことも悪いことも含めて。
中学2年のときに一応サッカー部に属してはいたんですけど、ほぼ行かず、勉強もせずに遊び呆けていたので、多分高校にも行けないと思っていましたね、ずっと」
――大学は日大芸術学部に行かれていますが、そういう発想もなかったですか?
「なかったです。芸能界に入りたいってまず思ってないですよね。エンタメの世界は好きでしたよ、その世界に逃げるのはね。
でも、僕らの子どもの頃は、沖縄から芸能人になった人なんていない時代ですからね。目指そうと思う気持ちも起きなかったですし、僕自身もものすごく2枚目というわけでもないし、歌がずば抜けて上手いとか、そういうのもなかったし。ただただ、大人になって沖縄で働いて人生を終えていくんだなというふうにしか捉えられなかったと思います」
――それが東京の大学に進むきっかけは何だったのですか?
「首里高校(沖縄県立首里高等学校)というところが進学校なので、基本みんな大学に進学するんです。で、僕も人生の目標は何もなかったんですけど、できるだけ遊んでいたいから学生生活を伸ばすしかないわけですよ。就職したくないから。
じゃあ大学は沖縄で行くか、県外で行くかとなった時に、やっぱりテレビの中心は東京じゃないですか。東京のドラマとか、東京の舞台みたいなのを見ていると憧れを抱くんですよ、田舎者は(笑)。
だから、人生のうちの4年間だけでも東京に住んでみたいな、1回は出てみたいなっていうことで、東京の大学を受けようっていう、それだけの話です。
そうかと言って、それでも別に芸能界なんて思ってもないですよ。ただ、東京で4年間過ごして大学卒業の資格があった方が沖縄でも就職が有利ですし、どこかの大学に入ればいいなみたいな感じでしたね。
もともと僕がこういう目立ちたがりの性格というか、人に『すごい、すごい!』って言われたかったんですよ。僕自身が中学校まではあまりろくでもない人生で、頭も悪かったんですけど、急に中2から勉強を頑張って首里高校という進学校に受かったことで、結構話題になったんですよね。
『すごいな。あんなバカが首里高校に受かるんだ』みたいな。それに味を占めちゃって(笑)。それで大学受験も『早稲田受かったんだ』なんてなったら、みんなまた驚くだろうなと思って。ただそれだけの理由です(笑)。
国立だったら科目が多いからしんどいし、早稲田か慶應かなということで、『じゃあ早稲田を目指そう』って思ったんですけど、やっぱり勉強してこなかったから落ちるわけですよ、現役でも。それで一浪して。
一浪でも全然偏差値が足りてないけど、こういう性格だから、何かたまたま受かったりするんじゃないかって。本当に何も考えてないんですよね。ちゃんと頑張らないと、いろんなものは成功しないんだよっていうことに気づかないんですよ。
それでまた、神様がちゃんと仕打ちを用意してくれて。早稲田の受験の当日に僕を盲腸にしてくれるんですよ。それで緊急入院して手術。入院している最中から『もう俺、二浪目に入ったな』ってわかるわけですよ。試験を受けられないから。
で、2度目はもう沖縄に行ったら遊んでしまうので、東京で浪人させていただいて。でも、学力も伸びないし、東京という寂しいところでギューギューのラッシュの電車に乗って、降りるときにいろんなサラリーマンに肩を押されて。田舎者だからいちいち『すみません』って謝ったりとかして。みんな誰も謝らないのに、それぐらいビビりでしたね」
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■運命を変えた浪人仲間の下宿生との会話■運命を変えた浪人仲間の下宿生との会話

2年目の浪人生活を東京で送ることになったゴリさんだったが、なかなか勉強の成績も上がらず、苦労したという。
「学力も伸びないからどんどん精神的に病んできちゃって、もう受験するのをやめて沖縄に帰ろうかなっていう風にポロッと同じ浪人の下宿生に話したら、『照ちゃん、神様が何にでもなっていいよって言ったら何になりたい?』って普通に会話で言ってきたんです。
それで、『何でもいいんだったらインディー・ジョーンズとかになって、馬に乗って悪者をやっつけて秘宝を見つけて…みたいな冒険がしたい』というようなことをポロッと言ったんですよ。
そうしたら『じゃあ、日芸に行けばいいじゃん』って言われて、初めて映画学科というのが大学に存在することを知るんですよ。『楽しそう』って(笑)。だって、経済学部、法学部、商学部…僕は全部興味ないんですよ。でも、どれか受けなきゃいけないわけじゃないですか。
文学部とか理系は最初から行くつもりなかったし。でも映画だったら楽しそうなことを4年間学びながら大学卒業の資格をもらえて、沖縄で就職が良くなるわけですよ。
それで、『絶対にここだ!』と思ったら、やっと勉強に身が入るんです。行きたいと思うからやっと。目的がないと頑張らないんですよね、人って。そうするとやっぱり学力も伸びていくんですよ。偏差値で日芸だけ受かった。
で、4年間映画を見たり映画を学んだり、サークルとかで映画を作ったりして楽しく過ごそうって思っていたら、卒業生が芸能界にいっぱい入るので、エキストラの話とかがボンボン舞い込んできて、沖縄に帰る前に経験として出たいとかってなるわけですよ。
出てみたら、テレビでしか見たことがない俳優さんとかが近くにいるからびっくりするわけですよ、田舎者だから。こんな近くにいると思ったら『あれっ?』って思って。
沖縄にいたらなかなか芸能人は見られないんですけど、東京に来ると沖縄で思っていたより芸能界って遠くないのかなと思っちゃうんですよ。裏方も含めてですけど、僕みたいな普通の一般的な人とかも芸能界でいっぱい働いているので、僕が勝手に過大評価しすぎていたのかな。人生1回しかないし、目指してみようかなっていう気持ちが初めて生まれてくるんですよ。そこから目指そうと思ったの。
だから、たまたま下宿でその人に言われなかったら、日芸も思いつかなかったし、なるべくして盲腸にもなって、なるべくして二浪になったから出会った言葉なのかなとか、アドバイスなのかなと思います。
何か人間っていい方向にどうしてもまとめたくなるんですけど、本当に進むべくして進んできた道なのかなって思っちゃいますよね」
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■朝ドラで記憶にない親戚からも連絡が…■朝ドラで記憶にない親戚からも連絡が…

1995年、ゴリさんは大学を中退。中学時代の同級生で、当時沖縄在住だった川田広樹さんを誘い「ガレッジセール」を結成。当時吉本興行が運営していた「渋谷公園通り劇場」のボランティアスタッフを経て、この劇場の第1号芸人に。1999年、「笑っていいとも!」(フジテレビ系)に出演。「エンジョイプレイ」で大ブレイクを果たす。
2001年には、連続テレビ小説「ちゅらさん」に出演。このドラマは、沖縄・小浜島の美しい自然の中で育ったヒロイン(国仲涼子)が、沖縄の“おばぁ”や家族、東京で一緒に暮らす「一風館」の住人たちに見守られ、成長する姿を描いたもの。
ゴリさんは、ヒロインの異父兄・古波蔵恵尚(こはぐら けいしょう)役を演じた。マスコット人形「ゴーヤーマン」を製作して大儲けしようとするも大失敗したり、何かと迷惑をかけてばかりだが、どこかにくめない“にぃにぃ”(お兄さん)をチャーミングに演じ、第30回ザテレビジョンドラマアカデミー賞新人俳優賞を受賞した。
――朝ドラ出演はご家族の方も喜ばれたでしょうね
「もう手の平を返しました(笑)。親戚も増えましたし、ものすごくわかりやすかったです。
今まで連絡が取れてなかった親戚も増えましたしね。
『あなたが生まれた3日後に抱っこしたこと覚えてない?その時抱っこしたんだよ』って電話がかかって来て言われたんですけど、生まれて3日後のことを覚えているわけがないじゃないですか(笑)。何かよくわからない親戚が増えました」
――「ちゅらさん」はすごい人気で続編も作られました。ゴリさん演じるにぃにぃの出生の秘密も明らかになりましたね
「そうですね。NHKの朝ドラで続編4までいったのは『ちゅらさん』だけらしいです。うれしいですよね
僕がマッコイ斉藤というディレクターに『ゴリ』という芸名をつけられたときに、母親がすごく反対したんですよ。『あなた、ゴリって呼ばれているの?照屋年之という名前があるのにやめなさい。恥ずかしい』って言われて。
『何かもうそれで浸透しちゃったんだよ』って言ったら、『あんたの名前は沖縄のユタ(古くから存在する霊的な存在)につけてもらったのに』って言われて、名前はユタにつけてもらったんだということをそのときに初めて知るんですよ。
でも、『ちゅらさん』で全国区になったら、もう自慢の息子になるもんですから、沖縄に帰ったら母親が『年之』って名前で呼ばなくなりましたからね。『うちのゴリ』って(笑)」
――「ガレッジセール」のゴリさんとして広く知られ、「エンジョイプレイ」、「ゴリエちゃん」など次々にいろんなことをされて人気を集めていきますがご自身ではどうでした?
「僕らがデビュー当時の芸人さんのネタってベタな設定が多かったんですよ。『コンビニの客と店員』とか『医者と患者』とか。
みんな大体高卒から始めるんですけど、僕らは23歳でデビューなんですよ。普通の人たちより5年ぐらい遅れてのスタートだったので、同じことをやっていては勝てないと思ったからこそ、違うネタを考えようってなったときに『エンジョイプレイ』っていうネタを思いついて。
そのネタのおかげで深夜番組のオーディションって何十組という芸人さんが受けるんですけど、僕らが『エンジョイプレイ』をやると、やっぱりディレクターが食いつくんですよ。
『面白いネタやるね』って。それで初めてプロフィルを見てくれるんです。何十組も受けに来るから、ディレクターとかプロデューサーもいちいちプロフィルなんて見ない。ちょっとネタを見て、『はい、ありがとうございました』みたいな感じ。
やっと見てくれたと思ったら、『沖縄出身って初めてじゃない?面白い。沖縄って何か言葉が違うんでしょう?しゃべってみて』って言うから方言でしゃべると『何?それ。何言っているのかわかんない』とか言って、全部のオーディションに勝っていくんですよ、そこから。
それで、デビュー3年目ぐらいでレギュラー番組がワーッと増えて、冠番組を持つようになって、他の芸人さんよりかは売れるスピードがすごく早かったんですよね。
それはやっぱり沖縄出身であるということと、『エンジョイプレイ』っていうのを考えたことが大きかったです」
「ちゅらさん」の翌年には、バラエティー番組「ワンナイR&R」で大人気キャラ・ゴリエちゃん(松浦ゴリエ)が誕生。2006年には、短編映画「刑事ボギー」で監督デビューも果たすなど幅広いジャンルで才能を発揮していく。次回はゴリエちゃん誕生秘話、撮影裏話なども紹介。(津島令子)
※ゴリ(照屋年之/てるや・としゆき)プロフィル
1972年5月22日生まれ。沖縄県出身。川田広樹さんとお笑いコンビ「ガレッジセール」を結成。「笑っていいとも!」、「ワンナイR&R」、「ぽかぽか」(フジテレビ系)、「ちゅらさん」シリーズ、「リピート〜運命を変える10か月〜」(読売テレビ)、映画「沖縄を変えた男」(岸本司監督)などに出演。2009年、「南の島のフリムン」で長編映画監督デビューを果たす。2018年に制作した映画「洗骨」は、モスクワ国際映画祭、上海国際映画祭など海外の映画祭にも出品され、日本映画監督協会新人賞を受賞。現在、最新監督作「かなさんどー」が全国公開中。」