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2025年3月28日 13:56

石田ひかり 中学1年生のときにスカウトされて芸能界デビュー!

2025年3月28日 13:56

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1991年に公開された映画デビュー作「ふたり」(大林宣彦監督)に主演し、第15回日本アカデミー賞新人俳優賞をはじめ、多くの映画賞を受賞して注目を集めた石田ひかりさん。「悪女(わる)」(日本テレビ系)、連続テレビ小説「ひらり」(NHK)、「あすなろ白書」(フジテレビ系)など多くのドラマ、映画に主演。2年連続で「NHK紅白歌合戦」の紅組司会も務めた。4月4日(金)に映画「アンジーのBARで逢いましょう」(松本動監督)の公開が控えている石田ひかりさんにインタビュー。(※この記事は全3回の前編)

■母が芸能界に入ることを許してくれた訳は…

東京都で生まれた石田さんは、父親の仕事の関係で3歳頃までは兵庫県で暮らし、9歳から3年間は台湾で過ごしたという。

「4歳からスイミングをやっていて、日本にいるときからそこそこの選手だったんです。それで、台湾に行っても、まず親がしたことはスイミングスクールを探したこと。それぐらいスイミングにブランクを与えないことを真剣にやっていました」

――ご両親としてはオリンピックに…という感じだったのでしょうか

「いえいえ、やっている側から言うと、オリンピックなんて普通の生活をしていたら出られないんですよ。それこそスイミング留学をしてイトマンに入って…ということをしても出られないような世界なので。

台湾の大会で新記録を出して1位になったのですが、日本では私はジュニアオリンピックにも出てないです。

私は背泳ぎの選手だったのですが、台湾では一年中外のプールで泳ぐのでゴーグル焼けをするんですね。それが強さのバロメーターみたいなところがあったので、それを必死にキープしていました(笑)」

――その当時は、芸能界に進むことは考えてなかったのですか

「全くないです。4歳からスイミングばかりやっていたので、テレビもあまり見る時間がありませんでした。本当にずっと水の中にいたので。

それで台湾に行って日本の(テレビ)番組も見られないし、全く興味もなかったんですけど、小学校6年生の夏に日本に帰ってきた時に小学校が舞台の『うちの子にかぎって』(TBS系)というドラマがすごい流行っていたんです。それを見て私の心がちょっと動いたのを覚えています」

――スカウトされたのはいつだったのですか?

「中学1年生のときです。私の前に姉が同じ人に声をかけられていて、その時に親が大反対していたのを見ていたので、絶対に無理だろうなと思っていましたし、母は『ほら見なさい、

みんなに声をかけているじゃない』と言いました。姉と私の2人が声をかけられて帰って来ましたからね」

――姉妹そろって同じ人にスカウトされるというのはすごいですよね

「そうですね。驚きました。でも、うちでは絶対に無理だなって思いました。私と姉はスイミングに通っているので毎日5時から9時ぐらいまで留守にするんですよ。その間に事務所から毎日のように電話があったみたいで。

それで、母があまりしつこいから事務所に断りに行ったら、ものすごく真面目に仕事をされていたみたいで。その姿を見て、母の考えは変わったんですよね。

自分の娘たちにそんな才能があるとは思えないけれども、この子たちをこの方々にお預けするのもありなんじゃないかと母は思ったみたいで、スイミングを続けることを条件に許されました」

■俳優としての活動を意識したのは…

石田さんは、14歳のときにドラマ「妻たちの課外授業II」(日本テレビ系)でデビュー。

歌手活動をした時期もあったが、俳優として次々と話題作に出演することに。

――俳優としての活動を意識されたのは?

「高校生のときに『ママハハブギ』(TBS系)というドラマのオーディションがあったんです。台本を渡されて、あるシーンを読むのですが、私の役のところだけ空白なんですよ。

他の役は全員(俳優の)名前が入っているのですが、そこだけ空白になっていて。『ここに絶対自分の名前を載せるんだ』って思ったんですよね。それで叶ったわけですけれども、やっぱり強い気持ちを持つことって大事だなって思いました」

――実際にやってみていかがでした?

「本当に頑張らなきゃいけないなと思いました。浅野温子さん、織田裕二さん、的場浩司さん、所ジョージさんなど錚々たる中に高校生の私がポンと入って、それこそ右も左もわからないけどがむしゃらに頑張りました。

歌に関しては全く売れなかったし、そのときに一生懸命やってくださったスタッフの皆さんには申し訳ないですけど、誰も見てくれないし、本当に惨めな思いをすることが多かったですね。

でも、ある曲のプロモーションビデオを作ったときの監督が、大林(宣彦)組の助監督をされていた方だったので、結局歌をやっていてつらかった3年間は全く無駄ではなかったん

だなって思いました。この出会いが、後の大林監督の映画『ふたり』に繋がっていく訳です。

プロモーションビデオの監督とメイクさんが大林組をずっとされている方で、メイクさんが、『ちょうど今、監督があなたぐらいの年齢の子を探しているから、監督にちょっと話しておくわね』っておっしゃってくださったんです。

それで、それからほどなくして、青山のカフェで監督とお会いすることになって。でも、そのときは、ただ監督とお会いするということだったのですが、それが実はオーディションだったんですよね。

そのときは他愛のない、それこそスイミングの話とかをしてお別れして。その日か次の日の夜に、役名が『北尾実加』というんですけど、『実加へ』という花束が自宅に大林監督から届きました」

――主役に決まったと知ったときはどう思いました?

「まず、『あれがオーディションだったんだ』って驚いたのと、大林監督の作品にこんなに早く出られるなんて思ってもいなかったので、信じられない気持ちでした」

■毎朝ホテルの部屋に差し替えのセリフが…

映画「ふたり」は、尾道を舞台に、目の前で亡くなった姉の幽霊に見守られながら成長していく多感な少女の姿を描いたもの。

石田さん演じる主人公の中学生・実加は、高校生の姉(中嶋朋子)を事故で亡くす。しかし、男に襲われそうになったときから姉の幽霊が見えるようになり、いつもそばで支えてもらいながら成長していく…というストーリー。

――ピンチになると幽霊のお姉ちゃんが現れて助けてくれる。とても印象的な作品でした

「そうですね。高校3年生の夏休み、尾道でみんなと一緒に1カ月半くらい家族のように過ごせたことはすごく大きかったですね。大林組の皆さんと寝食を共にして…ということは本当に大きな経験でした」

――大林監督の撮影現場はいかがでした?

「監督はただひたすらに優しくて穏やかで…本当に大きな瀬戸内海のようでした」

――撮影はスムーズにいきました?

「私は初めての映画の現場だったので、そのとき、比べるものがないからわからなかったんですけれども、今思うと非常にハードで、終わりの見えない戦いみたいな感じだったと思います。

カット割りが雨のようにあるし、毎日毎日セリフは変わるし…。毎朝起きると、ホテルの部屋のドアの下から差し込みが何枚も何枚も入っているんです。でも、そのときは比べるものがなかったので、映画はこういうものなんだろうなと思っていました」

――最初にそういう現場を経験すると、他があまり大変だと思わないでしょうね

「そうですね。でも、そのことに気づいたのは、何十年も経ってからです。大林組は『はるか、ノスタルジィ』のときも毎朝ホテルの部屋のドアの下の差し込みがありましたから台本通りということは全くなかったです。どんどんどんどん書き換えられていって、ものすごく分厚くなっていきます」

――大林監督の作品は、結構尺も長いですね。「ふたり」は2時間30分、「はるか、ノスタルジィ」が2時間46分。若くして大林組で主演映画が2作というのは、とても貴重な体験ですよね。どちらも難しい役どころでした。

「はい。でも、それもどう難しいのか、何が難しいのかわかってなかったので、ただただ目の前にあることをがむしゃらにやっていただけです」

――「ふたり」で数々の映画賞を受賞されましたが、ご自身ではどうでした?

「本当にご褒美を頂いた感じでした。『こんなに評価されていいんだろうか?』って思いました。実感としてはあまりなかったけど、評価していただけてうれしかったです」

■念願の朝ドラのヒロインに

石田さんは、高校卒業後、大学へ進学。さらに大学院へと進む。

「私は15歳からこの仕事をしているので、日数で言ったら人の半分ぐらいしか学校に行ってないんです。それではいけないなと思って。本当に勉強で苦しむという経験が私にはないと思ったので、社会人入試というのを見つけて院に2年間通いました」

――すごい勢いで映画、ドラマも撮っていて、さらに学生生活もとなるとかなりハードだったのでは?

「そうですね。夜間だったのですが、真面目な方が多かったです。おじいさんとか、学校の先生が多かったですね。本当に勉強したいと思って来ている方しかいませんでした。

授業は、大体2コマ、3時間ぐらいなのですが、こんな風に過ごす3時間があるんだと思いました。

ただただダラダラしていても3時間って、あっという間に過ぎますよね。

でも、こんなに針の筵(むしろ)のような、絶対に指されたくない、苦しい3時間もあるんだって。先生が何を言っているのか全然わからないんですよ。教室の時計を眺めながら、“やっぱり何十年経っても教室の針(時間)は進むのが遅いんだな”とも思いました(笑)」

「ふたり」の翌年、1992年には「悪女(わる)」(日本テレビ系)でドラマ初主演を果たす。このドラマは自由奔放な新入社員・田中麻理鈴(マリリン)が大企業で出世を目指していく姿を描いたもの。いまでは当たり前となったが、まだ“キラキラネーム”という名称も存在していなかった当時、マリリンという名前のインパクトも大きく、話題になった。

――連続ドラマ初主演でしたが、プレッシャーはありました?

「 周りの方々に『あなたにかかっているんだからね』とか、『社運をかけて』とかよく言われたんですけど、その『社運をかける』という意味がハタチの私は分かっていなかったので、のほほんとしていました」

同年、連続テレビ小説「ひらり」のヒロインとして注目を集めることに。このドラマは、東京の下町で暮らす相撲大好きな主人公・藪沢ひらりが相撲に関わりたいと願い、持ち前の明るさと行動力でさまざまな困難を乗り越え、相撲部屋専属の栄養士に…という内容。

性格が正反対の姉(鍵本景子)と相撲部屋の主治医(渡辺いっけい)をめぐっての三角関係、なかなか知ることができない相撲部屋の日常、恋と仕事に揺れ動く女性たちの心情を描いた。石田さんは、天真爛漫で誰もが惹きつけられる“ひらり”を溌剌とチャーミングに体現した。

――朝ドラの主演ということでプレッシャーは?

「あまりプレッシャーは感じてなかったです。鈍感なんですかね(笑)。プレッシャーは、今の方がよっぽど感じています。

若いときは、これがどれだけ重大な作品かということがわかっていなかった。ただただ頑張ろうと思っていました。

母が石垣島の出身なんですけど、朝ドラをやれば石垣島の親戚たちにもリアルタイムで見てもらえるということで、大きな目標だったんです。それが叶ったことがうれしかったです」

――「ひらり」はオーディションだったのですか

「いいえ。私はそれまで朝ドラのオーディションは何度も受けて落ちていたのですが、『ひらり』に関してはオーディションではなかったです」

――ひらりちゃんは天真爛漫で太陽のように明るくて人を惹き付ける魅力がある。一方、お姉ちゃんのみのりちゃんは正反対で

「そうですね。でも、今見ると、なかなか一歩踏み出せないみのりちゃんにすごい共感できるんですよ」

――でも、あそこまで嘘をついてごまかさなくても…とイラッとしました

「ひらりはちょっと鈍感すぎますよね(笑)。お姉ちゃんからしてみたら、ひらりは苦手なタイプ。誰からも好かれてグイグイいけて…という感じで正反対ですもん」

――全話撮り終わったときはどうでした?

「『ひらり』に関しては、『終わったー』というのはありましたね。幸せな達成感と、それまで味わったことのない寂しさもありました。『終わっちゃうんだ。半年間NHKに通っていたのに、明日から私はどうしたらいいんですか?』って。いきなり終わってしまったわけで、その違和感がしばらくあって燃えつき症候群になりました」

――石垣島のご親戚の皆さんも喜ばれたでしょうね

「はい。みんな喜んでくれたので、親孝行はできたかなと思いました」

石田さんは、「ひらり」が放送された1992年と93年、2年連続で「NHK紅白歌合戦」の紅組司会をつとめ、映画「はるか、ノスタルジィ」に主演。そして伝説のドラマ「あすなろ白書」(フジテレビ系)に筒井道隆さんとW主演するなど映画、ドラマに引っ張りだこに。次回はその撮影エピソードも紹介。(津島令子)

※石田ひかりプロフィル

1972年5月25日生まれ。東京都出身。1986年、俳優デビュー。映画では、「ふたり」、「はるか、ノスタルジィ」、ドラマでは「悪女(わる)」、連続テレビ小説「ひらり」、「週末旅の極意2〜家族って近くにいて遠いもの〜」(テレビ東京系)などに出演。4月4日(金)に映画「アンジーのBARで逢いましょう」(松本動監督)が公開されるほか、6月13日(金)公開「リライト」(松居大悟監督)、6月20日(金)公開「ルノワール」(早川千絵監督)と出演作の公開を多数控えている。

ヘアメイク:神戸春美

スタイリスト:藤井享子(banana)